身の妻の朝子の身体をすぐに気づかひ初めた。それで時子を杉本さんに任せて、一|先《まづ》明けといた家《うち》に帰ることにした。
繁吉は、丁度寝てゐる時子の頬に脣を押しつけて、短い髪の毛の小さい頭を、大きな掌《てのひら》でそっとなでゝ、それから布団のなかに静かに手を入れて、そっと時子の足の先にさはると、
『大丈夫だ。暖かくなってゐる。』と云って、朝子をかへりみると病室を出た。朝子は、子供の顔を黙ってみてゐたが、そのまゝ良人《をっと》のあとからついて出た。
朝子の家は病院から程近かったけれども、彼女は俥にのった。そして良人は彼女の俥と一緒に歩いた。朝子はなんとなく自分の家に行くことが恐ろしいやうな心持がした。彼女は、子供を失ってしまった後のやうな、妙な心持になって、どうしてもその心持からはなれることが出来なかった。自分と良人とが朝子をつれずに家に行かうとしてゐる。けれども家に行っても時子はゐないのだ、と思ふと彼女はぼっとして気のぬけたやうな心持になった。時子は病院にゐるのだといふ事は彼女が知ってゐても、その時考へても、なんにもならなかった。只時子のゐる家に帰って行くことが恐ろしいやうな心がするのであった。
曇った日のせゐか、家のなかはうす暗かった。そしてなんとも知れず厭な寂しい心地がした、丁度家が地下にでも埋められてあるやうにじめ/\して、玄関などには白いかび[#「かび」に傍点]がはえてゐた。そしてなんの物音も聞えない、堪へがたく静かである。
朝子はしばらく疲れきったやうに、ぢっと坐ってゐる。が、良人が雨戸をあけたり、裏口をあけたりしてゐるので、ふと気がついたやうに壁を見てはっ[#「はっ」に傍点]とした。壁には時子の楽書がたくさんに書かれてあった。朝子はまた時子が失はれてしまった後のやうな心になってしまってたのであった。あの驚き、あの苦痛、あの悲哀、時子が発病して殆ど危険に陥った時のことを思ふと、繁吉も朝子も、時子が失はれたものでなければならないやうな心がした。子供を失ったと同じ苦痛、同じ悲哀、同じ驚きを、彼も彼女も味はったのであった。彼等は、思ひ出したやうに、時子が死なゝかったといふよろこびを気がついたやうに話し合っては、夢からさめたやうに、はっ[#「はっ」に傍点]として静かに笑ふやうな場合が多かった。
[#一字下げ忘れか?200−14]朝子は總《あら》ゆる子供
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