う根本的に女が好きな、そして慥かに病的な原因を持つ男に特殊な表情を持っていた。しかしその特殊な表情は、どうかした機会でなければ現われなかった。
 万吉は、一見温厚な男である。全く虫も殺さないような男であるが、多くの色情的殺人犯者は型のように、こういう人間である。隠れた暴悪と残忍性とが、薄い皮一重のやさしさと美しさとで蔽われているのであるから物凄い。
 万吉は、山崎の家の納屋を建てる為めに、仕事に行くようになってから、山崎の嫁さんが非常に好きでならなくなったと同時に、もはやその感情を自分でどうすることも出来なかった。彼は自分の仕事がすんでしまってからも、毎日々々遊びに行った。
 山崎の家は、亭主と嫁さんと一人の乳呑子の外、子守女に亭主の父親がいる外は、外に何の雇人もいない。広い畑が家をかこんでいて、すぐ裏は、とど松やがんぴの樹が一面にしげった低い山が背になっている。麦や馬鈴薯が植えられて、菜の花が黄色にさく頃は、遠い北見峠の頂にまだ真白の雪が見えるのであった。それに家の前には、小さな流れが走っていて、飲料水も肥桶も、また大根も流れの下の方で洗うという、非常に便利な所であった。
 台所の板の間からつゞいて長い縁先に腰をおろして、万吉はいつもこの嫁さんを捕えてはいろ/\の事を話しかけるのであった。亭主がいようといまいと、万吉にはさほど苦にはならなかった。
『うちの、かいべつ[#「かいべつ」に傍点]には虫が尠い。』
 と、一人言しながら前の一寸した花などを作ってある所に、五つうね[#「うね」に傍点]ばかりのキャベツ[#「キャベツ」に傍点]がある、そのキャベツ[#「キャベツ」に傍点]の上に白い蝶が動いているのを見乍ら、嫁さんの顔をじっと見ていた。嫁さんは、一寸笑ったきり何かの仕事に余念がなかった。万吉は、いつもこんなように別に大した話しという話しもせずに帰って行く。
 亭主は、大抵外を出歩いていた。幾分のろま[#「のろま」に傍点]なような亭主は、馬をつれて四五里もある村へ出かけて、馬を交換してみたり、一寸した土地の売買に手出しをしたりして居たが、今度も家の方は嫁さんと老人にまかしたきり、天塩の海岸の方に何の目的もなく出かけて行って、まだ手紙の一本もよこさない。
 万吉が凶行を敢てしたのは、その留守である。
 其日は、朝早くから万吉が遊びにやって来た。勿論、万吉は最初から殺意があったわけではない。彼は今日こそは、毎日/\考えぬいたことをこの美しい嫁さんに打あけて、自分の思いを遂げたいと思って、とう/\殆んど夢中で、ながい間胸に畳んで居た、嫁さんに対する恋をうちあけて了った。そしてその時はもはや万吉は、意識の明瞭を欠いていた。いざとなれば飛びついて、自分の愛して居るものを、どうにでもしかねまじき勢で、熱心に、全くすがりつくように、また憐みを乞うものゝように嫁さんに対して迫まった。万吉の眼は血走って、すべての血液が両手と頭にだけ溢れてしまって、他の五官は働きを失ってしまったかのようであった。それでいて、青い顔がより以上青ざめて、唇の色は土のように黒く、下唇のぶる/\ふるえるのを噛みしめながら、口のかわきを時々のみこむ唾液でうるおして、心から嫁さんに肉迫した。
 嫁さんは、この万吉の要求を頭から拒絶した――というよりは殆ど正気とは思えないので相手にしなかった。しかしじょうだん半分とも思えなかったので思わずぞっとした。とその一瞬間――のぼせ上って血眼になっている万吉の眼は、グル/″\とまわってあたりを見た。――そして不幸にも彼の眼は土間の片隅に置いてあった、短い手斧の先に吸いつけられた。彼はそれを取るより早く振りあげた。万吉はもうその時発狂していた。
 急にかぶさって来た、重苦しく恐ろしい凄い憤怒の情の為めに、万吉は立上って何物にかぶつかって砕けてたおれなければならなかった。嫁さんは飛び下りて庭に走った。が、万吉の速度に敵すべくもない。彼の振りかざした斧は嫁さんの右の肩の上に落ちた。嫁さんは悲鳴の下にそこに倒れた。その声に驚いて近所で遊んでいた子守は、子供を負ったまゝ走って来た。寝ていた老人《としより》も起きて出た。万吉は猛獣のように、一人の老人と子供を負った子守女とを追いまわして、十二三間はなれた畑の中で、すべてを斃してしまった。
 万吉は、そのまゝ斧を投げすてゝ、この新開地の裏道から川にそうて逃げた。
 翌朝はやく警察の役人と、検死が来た、そして楯井さんは、兎に角死体を丁寧に棺に納めて、延徳寺のお寺さんの来るのを待った。楯井さんは、ぼんやりしてしまっていた。
 嫁さんは、延徳寺の熱心な檀家の一人であった、そして彼女はいつも口ぐせのように、一度は延徳寺にお詣りをしたい/\と言っていたこと等を思出した。そうして延徳寺建立の時などは、率先して大きな寄進をした。
 お昼すぎの二時頃延徳寺のお寺さんは来た。噂ではこのお寺さんは、学問があるけれども、非常に、やまし[#「やまし」に傍点]気のある人だという事であった。お寺さんは三十七八の頭の長い人で、顔中、細かい皺がよっていながら、つやつやしたいゝ色の膚の人であった。
 お寺さんのお経が終わってその夕方葬式をすませた。村のせまい墓所に四つの新らしい墓標が加った。
 延徳寺までは六里もあるので、其夜お寺さんは、此の家に泊った。新開地のことなのでいろ/\の人が集まって、お寺さんを囲んでさま/″\仏様の話し等をした。お寺さんは、こんなことを云った。
 丁度、一昨夜の十二時頃、大変ひどい音がして寝られなかったので、朝早く御堂に行って見ると、御堂の前の畳が二畳敷ほどの大きさ一ぱいに、生々しい血がひろがっていたと云った。聞いてた人々は、
『嫁さんがお寺まいりを、したい/\と云って一度もお詣りが出来なかったので、きっと嫁さんのたまし[#「たまし」に傍点](魂)が知らせに行ったのだ。』
 と云って、しみ/″\した顔付をした。
 楯井さんは、嫁さんの亭主が帰って来るまで、丁度五日の間この淋しい家に留守をしていた。亭主は帰って来ても、別に悲しんだ様子もなかったが、当座一週間ばかりは、毎日々々墓参りをしていた。

      三

 楯井さんは、六日目で再び自分の開墾地の堀立小屋に帰った。楯井さんは、あのお寺さんの話しを道々気にしながら、不思議な事もあるものだと考えていた。
 楯井さんは、開墾地に帰って来ても、別にあの惨虐な物語りを口にしなかった。けれども楯井さんは心の中で様々なことを考えていた。しかし、気の早いせっかちな楯井さんのおかみ[#「おかみ」に傍点]さんは、やはり女だけにその話しを待ちかまえていたように楯井さんを迎えたのであった。そして、無理矢理夫からその話しを少しでも聞きとっては、思出したように涙を流した。楯井さんは、重々しい調子で妻の問に対して答えるとすぐ口を閉じて、自分の考えたことや思出したことなどは少しも云わなかった。
『一番可哀想なのは、おなか[#「おなか」に傍点]さん(嫁さんの名)と赤《あか》(赤ん坊)だ。あんないゝ嫁さんもないもんだ。』
 と、おかみ[#「おかみ」に傍点]さんは、自分が四ヶ月も世話になって、いやな顔どころか、何から何につけて気がきいて親切にめんどう見てくれた嫁さんの事を、一番思出してたまらなくなつかしく悲しかったのだ。三人の子供を抱えて他《よそ》の家に厄介になった気苦労も、あのやさしい美しい嫁さんの為めに、忘れて仕舞ってた位であった。おかみさんは、いろ/\思出すごとに、断片的に楯井さんに聞くのであった。
『おなかさんは、あんないゝ人だに。山崎の亭主は、まるっきり家にいないからあんな事になったんだ。』
 と、おかみさんは山崎の亭主のことを、恨めしく思ったりした。楯井さんは、おかみ[#「おかみ」に傍点]さんがどんな事を云っても、外《ほか》のことを考えていた。そしてなんという事もなくお寺さんの話を、いつも思出しているのであった。楯井さんは急に、
『お寺さんの話では、おなか[#「おなか」に傍点]さんが殺された晩、ひどい音がして朝見ると、御堂の前に血がうん[#「うん」に傍点]と散らばっていたと云った。きっとおなか[#「おなか」に傍点]さんの知らせだろう。』
 と、非常に陰気な様子をして云った。けれどもおかみさんは、そんな話を少しも気にかけない。
『あのお寺さんの話しだもの。あてんならない、そんな事が今時世の中にあってたまるもんか。あんないゝおなか[#「おなか」に傍点]さんが、おばけ[#「おばけ」に傍点]になるなんてそんなわけはない。』
 と、なんでもないことのように云ってしまった。楯井さんは、それきり何にも云わなかった。
 それから丁度一週日[#「日」に「(ママ)」の注記]ばかり、毎日雨が降りつゞいた。楯井さんの家では別にかわったこともなく、毎日雨が降っても汗を流して開墾に勉めた。
 ある晩、ながい間降りつゞいていた雨が、夕方からカラッとやんで、なんとも云えない静かな雨上りの夜となった。楯井さんの家では麦を夜中《よじゅう》かゝって煮る為めに、大きな鍋が少しばかり突込んだ薪の火にかけてあった。火は勢なくトロ/\と燃えていた。三人の子供は、もう寐静まっている。楯井さんのおかみさんは、大きな湯沸《ゆわかし》に水をくもうと思って外に出ると、まもなく変な顔をして戻って来た。
『父《とっ》さん、あれはなんだろか。樹の株の上にいる光ったものは。』
 と、青い顔をして、後を振りかえり振りかえり小屋に入って来た。楯井さんは、黙って土間《にわ》にあった太い長い棒切を握って、そっと外に出て見た。井戸のすぐ側の太い樹の切株の上に、青い大きな光る珠がのっていた。
 おかしい、と楯井さんは口の中で云って、その側へ静かに歩みよると、首をのばして熟視した。火の玉は、玉の心まですきとおっているようで、また表面だけ光っているようでもある。楯井さんは、その太い長い棒で力まかせに叩きつけた。青い光りの玉は、何の音もせずに消えた。楯井さんはふと変な気がした。全く何の手ごたえもしない。そして心の底まで冷《ひや》っとするような気がすると、それと同時に楯井さんは、すぐ嫁さんの霊《たまし》だと思込んでしまった。
 小屋の入口の所で、この様子をみていた楯井さんのおかみさんは、楯井さんがこちらに向って歩いて来るのを見ながら、
『なんだろう、父《とっ》さん、あんな鳥がいるというが、鳥なら人が行けば逃げそうなもんだね。』
 と云いながら急に、
『父《とっ》さん、父《とっ》さん、また出た。また出た。』
 と叫んだ。楯井さんは急に後を振りかえると、今度は少しはなれた切株の上に、やはり前と同じ火の玉が青白く光っていた。楯井さんは、また静かに歩いて行くと、その切株の側まで行って、例の棒で叩きつけた。火の玉は、またはっと消え去った。
 楯井さんは、それを三度くりかえした。そして三度目からもうその火の玉は出なかった。
 楯井さんは小屋に入ってからも、別に驚いた様子も見えなかった。火の玉だけで気持を悪くしたのは、かえって楯井さんのおかみさんであった。しかし、おかみさんはすぐにそれを忘れてしまったように、床に入った。
 間もなく楯井さんも床に入ったが、彼は少しもねむれなかった。楯井さんの心では、慥かにあの火の玉は、無残に殺された山崎の人々のたましいに違いないと思った。最初の玉は嫁さんので、二度目の玉は老人ので、三番目が子守女のであろうと考えた。が、すぐに赤ん坊のも出れば四つ出なければならないと、神経質になりきって考え込んだ。しかし子供は、この世の中で何の罪も犯していないから、無事に極楽浄土へ往生したのだ――、自分だちは何の恨みもあの殺された人々にはないはずだが、しかし何の為めに、自分だちの家へこうして祟って来るのだろう。と、楯井さんは、殆ど夜のほの/″\と白みかゝる頃まで様々と考え悩んだ。楯井さんは、もう夜あけまで、少しもねむらなかった。そしてあたりが白み出して、すべての物がはっきり見え出すと床をぬけ出た、そして外に出た。
 空にはまだ暁の星が光っていた
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