惨事のあと
素木しづ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楯井《たてい》夫婦が、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)河|彼方《むこう》にある
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)まっか[#「まっか」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぼつ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
楯井《たてい》夫婦が、ようやく未墾地開墾願の許可を得て、其処へ引移るとすぐ、堀立小屋を建てゝ子供と都合五人の家族が、落著いた。と間もなく此の家族が四ヶ月あまりも世話になっていた、遠い親類にあたる、その地では一寸した暮しをしていた山崎という農家の、若い嫁と生れて間もない子供と、子供を背負うてかけつけて来た子守女と、その家の老人と四人が惨殺されたという知らせをうけた。
そこは、楯井夫婦が引移った未墾地から、約二里隔った天塩川の沿岸の、やはり新開地である。五六年後には、稚内《わっかない》へ通ずる汽車の工事が始まるというので、第一回目の測量がすむと、もう停車場が此所へ建つの、あすこへ建つのという噂で、気の早い連中はもう自分だちの勝手ぎめで、どしどし家を建て出した。家と云った所で、大抵柾造りのひくい家で、雪の多い北海道の山奥には、どうかすると心細いほど粗末なものである。
ぼつ/\と人が入り込んでから、まだ三四年とたゝないこの山奥の未開地に、警察等の手は届かなかった。郵便局も役場も学校なども、かれこれ七八里の山道を行かねばならないのであった。それに道もようやく、山道を切り開いた所や熊笹を刈ったあとの、とげ/\した荒れた道である。
楯井さんは、此の知らせを受けて、妻と三人の子供を残して兎に角すぐに出かけた。彼は、非常に驚いたけれども、なんとなく信ずることが出来なかった。そんなはずが、けっしてないような気がしてならなかった。彼は、そんな事が、決して世の中にありうることではないと思っていたのではなくて、唯この山奥の新開地に、そんな事をする人がいようとは、どうしても思われなかったのである。
楯井さんは、自分の住んでいるこの山奥を、何という安らかな、そしてなつかしい所だろうと、いつも考えているのであった。
彼が考えている浮世というもの、罪悪などゝいうものからはなれた、大きな自由な安心な、たのしい箱のなかへでも入ったようなつもりで、この山奥の生活をしているのであった。毎日山鳥の啼く音《ね》鶯の囀る声、雉子などが樹から樹へ飛びうつるのを、何の慾心なしに見聞《みきゝ》している。そして絶えず新らしい木の香や、土の匂が彼にさわやかな清い心を与えているのであった。
楯井さんが、どうしても信ずることが出来ないと思いながらも、出かけたのはもう日の暮れ方であった。ほの暗く一帯に暮れて行く荒地の行く道には、そここゝに笹の根や木の株、草や木の枝などを焼く火が、はっきりと見えて、山道とはいうものゝ少しも淋しくない。夜中《よじゅう》ごみ焼をしている人だちは、火影に顔をまっか[#「まっか」に傍点]に染めながら、長いレーキ(ごみさらい)で、火をつゝいたりごみ[#「ごみ」に傍点]をくべたりしていた。こんな所へ通りかゝると、楯井さんは、
『お晩は、』と云った。(『今晩は』の意である)すると彼方でも、
『こんなに遅くどこさ行きなさるかね。』
と、きっと聞いた。彼等には、夜にかけてすた/\と一人で歩いている彼が不思議に思われたのであった。楯井さんは、そう聞かれるといつも不意を喰ったように、返事のしように困った、
『新開地の山崎の家に、非常なことが出来てこれからそこさ行くんです。』
と、ようやく答えると、そのまゝ彼は通りすぎた。楯井さんは、内気な方ではあるけれども、度胸のすわった人である。そして日清戦争の時従軍したということで、どことなく落著いたような様子をしていた。
楯井さんが、新開地へようやく著いたのは夜も九時近かかった。それに山崎の家のある所へ出るには、どうしても手塩川を渡らなければならないので、河|彼方《むこう》にある渡船場の人を呼ぶには、よほど大きな声を出さなければならなかった、それに手塩川はこの辺に来てかなり河幅を増していた。彼は河岸の樹にぶらさげてある合図の木を、ガタン/\と力をこめて一心にたゝいたり、また時々は手をやすめて、オーイ/\、と呼んだりした。うすぼんやりしたような夜で、急な河の水音ばかりが、はげしく強く耳に入った。楯井さんは、いま自分が行こうとしている所の、惨虐な事件のこと等《など》は、少しも考えられなかった。ふと頭に思浮んでも物凄い心持は少しも起らない。彼は、河の水が時々ちらり[#「ちらり」に傍点]、ちらり[#「ちらり
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