ひきかせてゐる自分自身を見た。
『なぜお母樣は、足が一本ないの。』
『お母樣はね。』と彼女自身は云ひきかせるやうに誠らしく念をおして、
『お前を産む爲めに苦しんで、そして病氣になつて足を切つてしまつたの。』
 けれども多緒子は急に胸がふさがつて、眼にいつぱいの涙が浮んで來ると、泣き出しさうな心になつた。なぜ自分は、そんな嘘を誠らしく本當に云はうとしてるのだらう。多緒子は、自分が不具であるといふ苦しさ悲しさの責任を、何も知らない、そして彼女の言葉のすべてを信じようとして、瞳を見張つてゐる我子の肩に荷なはせようとしたのだけれども、それは殆ど無意識に、多緒子の苦しい愛の悲しみのなかに彼女が考へたことであつたのだ。そして彼女は自分のその嘘によつてでも、我子のあはれみと愛とを求めようとしたのである。
 多緒子は、涙をはらつて、自分自身をいまはしく思つた。そして赤ん坊の無心な顏をぢつと見つめて、また新らしく涙をながした。
『私は、この可愛い自分の子供を負つて歩くことも、手を引いて歩くことも、そして抱いて歩くことも出來ないのだ。子供はいまに知らないで、この母親の脊に手をかけておんぶ[#「おんぶ」に傍点]と云ふだらう。そして抱いて坐つてゐると、立つて部屋のなかを歩けといふだらう。その時私はどうして、涙なしに出來ないといふことが出來るだらうか。子供にとつてそれは正常なことであるのに、私には絶對に出來ないのだ。そして軈て子供は自分の母親の肉體に氣づくだらう。子供はまづ初めに母親によつて、世の中の大きな不當を考へるだらう。疑を持つだらう。そして悲しみが子供の小さな心を包むに違ひない。』
 多緒子は、いつもかういふ事を考へた揚句が、自分の生きてることが子供にとつて幸か不幸かといふことに思ひ至るのであつた。勿論彼女は決して幸福だとは思はないのである。そして多緒子は、いつも自分の死を考へてる刹那でも少しの躊躇もなく、我子の未來の成長した時のさま/″\の幻を描いてるのであつた。
 赤ん坊の幸子は、多緒子にとつてもまた夫の巍《たかし》にとつても、丁度すべての幸福と不幸とを祕めてる、不思議な美くしい珠のやうなものであつた。多緒子は夫に愛されて、また夫を愛して婚した。そして二人は二人きりな淋しい靜かな生活のなかに幸子を産んだ。多緒子にはたつた一人の母親、巍《たかし》には只一人の父親があつたけれども、遠く山を海を隔てゝゐな[#「な」はママ]ので、赤ん坊は生れるとすぐに二人の若い兩親の手ばかりで育つた。巍は子供を抱いて子守唄を歌ひながら、部屋の中を歩きまはつた。そして幸子の小さな寢床を二人の間にのべた。無經驗な二人は經驗者より以上の敏感と神經質とでもつて、我子の上を見つめ、我子の上をかへりみた。二人は傭ひ入れた女中にも、赤ん坊のことはさせなかつた。
 二人ははじめ各ひそかに赤ん坊の肉體をくまなく注意深く見て、少しのきずも少しの間違もないのを見ると、非常な安堵と感謝の心持とを深く感じた。多緒子はおどおどして赤ん坊と二人きりの時、幾度となく赤ん坊の縮こまつてる兩足を、そつとのばしてはくらべて見た。一分でもちがつてゐたら、成長してから一寸の違ひにもなるであらう。多緒子は常にある恐怖を持つて我子、我夫、すべて愛するものゝ足といふことを考へてゐたのであつた。
 けれども幸子は二人の間に、本當に初夏の若葉のやうに快よく目に見えて幸福さうに育つた。二人はふとした休息の時に、寢入つてる幸子の顏をのぞき込んで、新らしい果物のやうな、甘い快い香ひをかぎながら、微笑み合つた。
『なんて完全に心持よく大きくなつたらう。』
 巍《たかし》は感心してよろこびに堪へられないやうに云ふ。すると多緒子もすべてを忘れて、嬉しさうに深い息をつきながら、
『本當に、なんて可愛《かはい》んでせう、どこつてかけた所のない、この肌の氣持のいゝこと。』
と、なにか云ひたいことが、とても口で事はれないと云つたやうにある感慨にみたされて云つた。二人はそのひまもぢつと幸子を見てゐた。やがて巍は、多緒子の顏を見ながら云つた。
『二人の愛のなかに産れた子供なだもの[#「なだもの」はママ]、全く全く純な愛、清らかな肉體から生れた子供だもの。だから幸子は、こんなに完全で氣持がよくきれいなんだよ。それが普通なんだもの。』
『本當にね。』
 多緒子は涙を浮べてうなづいた。そして愛するものゝ爲めに、彼女は出來るだけの心づかひを持つて、一生懸命に働いた。
 けれども梅雨《つゆ》の終り頃になつて、すべてが濃い青葉につゝまれてしまつた頃、幸子《さちこ》は小さな咳を二つ三つし初めた。彼女たちは、子供にとつて恐ろしい百日咳の話しを幾度となく聞いたので、巍《たかし》が[#「巍《たかし》が」は底本では「巍《たかし》を]子供をつれてすぐ近所の小兒科
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