こんな言葉を使うのはまずいが、お前に言って聞かせるんだから、どうも仕方がない)そういう概観によっては、決して、大きくも深くも美しくもなりはせんのだ。逆に細部《ディテイル》を深く観察し、それに積極的に働きかけることによって、世界は無限に拡大されるんだ。この秘密を体得しもしないで、生意気にもいっぱし[#「いっぱし」に傍点]のペシミストがる資格はないね。誰だって人間が出来てくれば、そう一々、世俗だとか、そのコンヴェンションだとかを軽蔑するものじゃない。むしろ、その中に、最も優れた智慧を見出すものだ。眺めたままの人生の事実だけでは何の奇もないことも、それに或る物を加工し、それを一定の方式に従って取扱う時、たちまち、意味のある面白いものとなることがあるんだ。これが、人生のコンヴェンションの必要な所以《ゆえん》さ。もちろんこれにばかり没頭しているのは愚の骨頂だが、一見しただけで絶望したり軽蔑したりするのは、馬鹿げた話だ。初等代数の完全平方って奴を知ってるだろう? あの方式を知らなければちょっと解けそうもない方程式が、あれ一つですぐに出来てしまう。そのように、人生の与えられた事実に対しても、一通り方程式の両辺にb/2a[#「b/2a」は分数]の二乗を足《た》して解りやすく意味のあるものとする技術を習得すべきだね。懐疑はそれからで沢山だよ。
とにかく、繰返して言って置くけれども、あの気障《きざ》な・悟ったような・小生意気《こなまいき》な・もの[#「もの」に傍点]の言い方だけは、止してもらいたいな。全く、お前よりも此方《こっち》が恥ずかしくて、穴へでも這入《はい》りたくなる。一昨日《おととい》だって、見ろ。仲間の独身者たちと結婚について話をしていた時の・あのお前の言い草はどうだ? 何と言ったっけな。そう、そう。「どんな面白い作品だって、それを教室でテキストにして使えば途端に詰まらなくなっちまうのと同じで、どんないい女だって、女房にしちまえば、途端に詰まらない女になってしまうんだよ。」か。それを得意気に言った時の・お前のうすっぺらな・やにさがった顔付を思出し、お前の年齢と経験とを併せて考えると、本当に己《おれ》は、恥ずかしいのを通り越して、ゾッと鳥肌が立って来るよ。全く。まだ、ある。いうことは、まだ、あるんだ。鼻持のならない気取屋のくせに、その上、お前はきたならしい[#「きたならしい」に傍点]助平野郎でさえあるじゃないか。知ってるぞ。いつだったか、海岸公園へ生徒を二人連れて遊びに行った時のことを。その時お前たちが芝生で腰を下して休んでいたら、やはり近くで休んでいた労働者風の男が二・三人、明らかに故意《わざ》と聞えるような声で猥《みだ》らな話を交していたろう。その時の・お前の態度や目付はどうだった! 当惑し切って、よそを向いて聞かないふり[#「ふり」に傍点]をしている――しかし、どうしてもそれを聞かない訳に行かない少女たちの方を、お前は、また、何といういやらしい[#「いやらしい」に傍点]目付で(おまけに横目で)ジロジロ見廻したことだ! いやはや。
なに、己は別に人間生来の本能を軽蔑しようというんじゃない。助平、大いに結構。しかし、助平なら助平で、何故堂々と助平らしくしないんだ。気取ったポーズや、手の込んだジャスティフィケイションのかげに助平根性を隠そうとするのが、みっともないと言ってるんだ。この事ばかりではない。その他の場合でも、何故もっと率直にすなおに[#「すなおに」に傍点]振舞えないんだ。悲しい時には泣き、口惜《くや》しい時には地団太を踏み、どんな下品なおかしさでもいいから、おかしいと思ったら、大きな口をあいて笑うんだ。世間なんぞ問題にしていないようなことを言って置きながら、結局、自分の仕草の効果をお前は一番気にしているんじゃないか。もっとも、お前自身が心配するだけで、世間ではお前のことなんか一向気をつけていないんだから、つまりは、お前は、自分に見せるために自分で色々の所作を神経質に演じている訳だ。全く、どうにも手の込んだ大馬鹿野郎・度しがたい大根役者だよ。お前という男は。…………
気がつくと、三造は、何処かの店の飾窓《ショウ・ウィンドウ》の前のてすり[#「てすり」に傍点]につかまり、硝子《ガラス》に額を押付けて危く身体を支えながら、半分睡っていたらしい。飾窓の明るさに眼をしばだたいてよく見ると、それは頸飾や腕輪や、そういう真珠の製品ばかりを売る店である。おでん屋の前でM氏と別れ、それからぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]といつの間にか、弁天通という・この港町特有の外人相手の商店街まで歩いて来ていたに違いない。振りかえって通りを見れば他の店は大抵しまって人通もなくひっそり[#「ひっそり」に傍点]しているのに、この店だけは、どうした訳か、ま
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