を点《つ》け、まず表に向った窓を明放って空気を換える。それから、隅に吊るした鸚鵡《おうむ》の籠をのぞいて餌の有無を見てから、衣服も換えずに、ベッドの上に仰向けに、両手の掌を頭の下に組合せて、ひっくりかえる。
 そう疲れるはずはないのに、ひどく疲れたような感じである。今日一日、何をしたか? 何もしはしない。朝遅く起き、朝昼兼帯の食事を階下の食堂で済ませてから、読みたくもない本を無理に辞書と首っぴきで十頁ほど読み、それに倦むと、親戚の子供の死んだのにくやみ[#「くやみ」に傍点]の手紙を出さなければならないことを思い出して、書こうとしたが、どうしても書けない。結局手紙はよして、表に飛出し、街へ行って映画館に入り、そうして帰って来ただけのことだ。何という下らない一日! 明日《あした》は? 明日は金曜と。勤めのある日だ。そう思うと、かえって何か助かったような気になるのが、自分でも忌々《いまいま》しかった。
 時勢に適応するには余りにのろま[#「のろま」に傍点]な・人と交際するには余りに臆病な・一介の貧書生。職業からいえば、一週二日出勤の・女学校の博物の講師。授業に余り熱心でもなく、さりとて、特に怠惰という訳でもない。教えることよりも、少女たちに接して、これに「心優しき軽蔑」を感じることに興味をもち、そうして秘かにスピノザに倣って、女学生の性行についての犬儒的《シニック》な定理とその系とを集めた幾何学書を作ろうか、などと考えている。(例えば、定理十八。女学生は公平を最も忌み嫌うものなり。証明。彼女らは常に己《おのれ》に有利なる不公平のみを愛すればなり。の如き。)結局、学校へ出る二日は自分の生活の中で余り重要なものでないと、この男は思い込みたがっているのだが、この頃では、それがなかなかそうではなく、時として、学校が、というよりも、少女たちが、自分の生活の中にかなり大きい場所を占めているらしいことに気付いて愕然とすることがある。

 学校を卒業して二年目、父の死によって全く係累のなくなった三造が、その時残された若干の資産を基《もと》に爾後《じご》の生活の設計を立てた。その設計に従ってその時自分がヌクヌクともぐり込もうとした坑《あな》の、何と、うじうじと、ふやけた、浅間しくもだらしないものだったか。今の三造には腹が立って腹が立って堪らないのである。
 その時、彼は自分に可能な道として二つの生き方を考えた。一つはいわゆる、出世――名声地位を得ることを一生の目的として奮闘する生き方である。もとより、実業家とか政治家とか、そういうものは、三造自身の性質からも、また彼の修めた学問の種類からいっても、問題にならない。結局は、学問の世界における名誉の獲得ということなのだが、それにしても、将来の或る目的(それに到達しない中に自分は死んでしまうかも知れない)のために、現在の一日一日の生活を犠牲にする生き方である点に、変りはない。もう一つの方は、名声の獲得とか仕事の成就とかいう事をまるで[#「まるで」に傍点]考えないで、一日一日の生活を、その時その時に充ち足りたものにして行こうという遣り方、但し、その黴《かび》の生えそうなほど陳腐な欧羅巴出来の享受主義に、若干の東洋文人風な拗《す》ねた侘《わ》びしさを加味した・極めて(今から考えれば)うじうじといじけた活《い》き方である。
 さて、三造は第二の生活を選んだ。今にして思えば、これを選ばせたものは、畢竟彼の身体の弱さであったろう。喘息と胃弱と蓄膿とに絶えず苦しまされている彼の身体が、自らの生命の短いであろうことを知って、第一の生き方の苦しさを忌避したのであろう。今に至るまで治りようもない・彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。人中に出ることをひどく[#「ひどく」に傍点]恥ずかしがるくせに、自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が、才能の不足を他人の前にも自《みずか》らの前にも曝《さら》し出すかも知れない第一の生き方を自然に拒んだのでもあろう。とにかく、三造は第二の生き方を選んだ。そして、それから二年後の、今のこの生活はどうだ? この・乏しく飾られた独り住居の・秋の夜のあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]は? 壁に掛けられたあくどい色の複製どもも、今はもう見るのも厭だ。レコオド・ボックスにもベエトオベンの晩年のクヮルテットだけは揃えてあるのだが、今更かけて見よう気もしない。小笠原の旅から持帰った大海亀の甲羅ももはや旅への誘いを囁《ささや》かない。壁際の書棚には、彼の修めた学課とは大分系統違いのヴォルテエルやモンテエニュが空しく薄埃をかぶって並んでいる。鸚鵡《おうむ》や黄牡丹《きぼたん》いんこ[#「いんこ」に傍点]に餌をやるのさえ億劫《おっくう》だ。ベッドの上にひっくり返って三造は
前へ 次へ
全14ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング