いのである。しかもM氏は欺されたとは毛頭考えずに、得々として人ごとにこれを見せ廻っているらしい。それにこの文章は明らかにM氏自身の執筆である。
 頁をめくって前の方を見ると、何と、紫式部、清少納言のたぐい[#「たぐい」に傍点]がずらり[#「ずらり」に傍点]と、やはりM夫人と同じ組方で、それぞれ一頁の半分ずつを占めて並んでいる。三造は目を上げてM氏を見た。三造の呆れた顔を感嘆の表情ととったものか、M氏は隠し切れない嬉しさを見せて鼻をうごめかしている。(彼が笑うと、黄色い歯が剥《む》き出され、それと共に、その赤い鼻が――誇張でも形容でもなく――文字通り、ヒクヒクとうごめくのである。)三造はすぐに目を俯《ふ》せた。堪えられない気がした。喜劇? そうかも知れぬ。しかし、これはまた、何と、やり切れない人間喜劇ではないか。腔腸《こうちょう》動物的喜劇? 三造は棚の上の小さなカメレオンの模型に目を外らしながら、ぼんやり、そんな言葉を考えた。

       四

 その夜M氏に誘われて、三造がおでん屋の暖簾《のれん》をくぐったのは、考えて見ると、誠に不思議な出来事であった。第一、M氏が酒をたしなむという事も初耳だったし、殊に外へ飲みに出るなどちょっと想像も出来ないところで、それに三造を誘うに至っては全く意外だった。M氏にして見れば、細君についての詳しい話をするほどに親しくなった(と、そう彼は思っているに違いない。)三造に、何かの形で好意を示さなければならないように感じたに違いない。誰にも相手にされない男が、たまに[#「たまに」に傍点]他人から真面目に扱われたと考え得た喜びが、彼を駆って、おでんや行《ゆき》などという・彼としては破天荒な挙に出させたのであろう。M氏の誘に応じた三造の気持も、我ながら訳の判らぬものであった。持病の喘息のため酒はほとんど絶っているのだし、M氏のようなえたい[#「えたい」に傍点]の知れない人物と今まで真面目に話をしたこともなし、だからその晩M氏につき合ったのは、M氏ののろのろ[#「のろのろ」に傍点]した薄気味の悪い・それでいて執拗な勧誘を断り切れなかったためというよりも、『名婦伝』で挑発された・この男への・意地の悪い好奇心のせい[#「せい」に傍点]だったかも知れない。

 余り飲まない三造に、そう無理に勧めるでもなく、一人で盃を重ねる中に、M氏はその赤い鼻
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