られざりし者との差には、比ぶべくもないではないか、という考え方はどうだ。」云々。
「この世において立派な生活を完全に生き切れば、神は次の世界を約束すべき義務を有《も》つ、と言った素晴らしい男を見るがいい。」……云々。
「汝は幸福ならざるべからず[#「汝は幸福ならざるべからず」に傍点]と誰が決めたか? 一切は、幸福への意志の廃棄[#「幸福への意志の廃棄」に傍点]と共に、始まるのだ。」云々。
その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。しかし、彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有《も》ちたかったのだ。曲りくねった論理を辿って見て、はて、俺の存在は幸福なのだぞ、と、自分を説得して見ねばならぬ幸福などでは仕方がなかったのだ。
時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈《つんざ》いて奔《はし》る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃《ひらめ》く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだん[#「ふだん」に傍点]より一層惨めなあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]の中に自《みずか》らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中《もなか》に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力《つと》めるようにさえなったのだ。
ところで、今、河岸に沿うて歩きながら、珍しくも、三造の中にいる貧弱な常識家が、彼自身のこうした馬鹿馬鹿しい非常識を哂《わら》い、警《いまし》めている。「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっと直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢な愚かさに耽《ふけ》っているのだ。それは既に人々が夙《と》うの昔に卒業してしまった事柄――あるいは余り馬鹿げ切っているので、てんで初めから相手にしない事柄の一つではないか? 少しは恥ずかしく思うがいい。」「本当に人々はもはやこの問題を卒業しているのだろ
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