は廃せられたが、宮刑《きゅうけい》のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑《ふけい》ともいうのは、その創《きず》が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木《ふぼく》の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人《えんじん》と称し、宮廷の宦官《かんがん》の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷《しばせん》がこの刑に遭《あ》ったのである。しかし、後代の我々が史記《しき》の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令《たいしれい》司馬遷は眇《びょう》たる一文筆の吏《り》にすぎない。頭脳の明晰《めいせき》なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人《ひと》に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人《へんくつじん》としてしか知られていなかった。彼が腐刑《ふけい》に遇《あ》ったからとて別に驚く者はない。
司馬氏は元《もと》周《しゅう》の史官であった。後、晋《しん》に入り、秦《しん》に仕え、漢《かん》の代となってから四代目の司馬談《しばたん》が武帝に仕えて建元《けんげん》年間に太史令《たいしれい》をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律《りつ》・暦《れき》・易《えき》のほかに道家《どうか》の教えに精《くわ》しくまた博《ひろ》く儒《じゅ》、墨《ぼく》、法《ほう》、名《めい》、諸家《しょか》の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見《けん》をもって綜《す》べて自己のものとしていた。己《おのれ》の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子《むすこ》の遷に受嗣《うけつ》がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内《かいだい》の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
元封《げんぽう》元年に武帝が東、泰山《たいざん》に登って天を祭ったとき、たまたま周南《しゅうなん》で病床にあった熱血漢《ねっけつかん》司馬談《しばたん》は、天子始めて漢家の封《ほう》を建つるめでたきときに、己《おのれ》一人従ってゆくことのできぬのを慨《なげ》き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史《つうし》の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集《しゅうしゅう》のみで終わってしまったのである。その臨終《りんじゅう》の光景は息子・遷《せん》の筆によって詳しく史記《しき》の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起《た》ちがたきを知るや遷を呼びその手を執《と》って、懇《ねんご》ろに修史《しゅうし》の必要を説き、己《おのれ》太史《たいし》となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟《じせき》を空《むな》しく地下に埋もれしめる不甲斐《ふがい》なさを慨《なげ》いて泣いた。「予《よ》死せば汝《なんじ》必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾《なんじ》それ念《おも》えやと繰返したとき、遷は俯首流涕《ふしゅりゅうてい》してその命に背《そむ》かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷《しばせん》は太史令《たいしれい》の職を継いだ。父の蒐集《しゅうしゅう》した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝《ふしそうでん》の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初《たいしょ》元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記《しき》の編纂《へんさん》に着手した。遷、ときに年四十二。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋《しゅんじゅう》を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝《さでん》や国語《こくご》になると、なるほど事実[#「事実」に傍点]はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮《あざ》やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許《みもと》調べの欠けているのが、司馬遷《しばせん》には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底《てい》のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積《うっせき》したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創《つく》るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画《えが》いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子《こうし》に倣《なら》って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異《こと》にした述而不作《のべてつくらず》である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝《しこうてい》の反文化政策によって湮滅《いんめつ》しあるいは隠匿《いんとく》されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文[#「文」に白丸傍点]の興《おこ》らんとする気運が鬱勃《うつぼつ》として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史[#「史」に白丸傍点]の出現を要求しているときであった。司馬遷《しばせん》個人としては、父の遺嘱《いしょく》による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然《こんぜん》たるものを生み出すべく醗酵《はっこう》しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀《ごていほんぎ》から夏殷周秦《かいんしゅうしん》本紀あたりまでは、彼も、材料を按排《あんばい》して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽《こうう》本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王|則《すなわ》チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞《ぐ》。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬《しゅんめ》名ハ騅《すい》、常ニ之《これ》ニ騎ス。是《ここ》ニ於《おい》テ項王|乃《すなわ》チ悲歌|慷慨《こうがい》シ自ラ詩ヲ為《つく》リテ曰《いわ》ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋《おお》フ、時利アラズ騅|逝《ゆ》カズ、騅逝カズ奈何《いかん》スベキ、虞ヤ虞ヤ若《なんじ》ヲ奈何《いか》ニセン」ト。歌フコト数|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《けつ》、美人之ニ和ス。項王|泣《なみだ》数行下ル。左右皆泣キ、能《よ》ク仰ギ視《み》ルモノ莫《な》シ……。
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気|溌剌《はつらつ》たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有《も》った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止《や》める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽《こうう》が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝《しこうてい》も楚《そ》の荘王《そうおう》もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》や范増《はんぞう》が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
調子のよいときの武帝《ぶてい》は誠《まこと》に高邁闊達《こうまいかったつ》な・理解ある文教の保護者だったし、太史令《たいしれい》という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周《ほうとうひしゅう》の擠陥讒誣《せいかんざんぶ》による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚《かんぷ》なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年ののち、突然、この禍《わざわい》が降《くだ》ったのである。
薄暗い蚕室《さんしつ》の中で――腐刑《ふけい》施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾《おこ》して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然《ぼうぜん》と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬《ざん》に遭《あ》うこと、死を賜《たま》うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死《けいし》する己《おのれ》の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵《りりょう》を褒《ほ》め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念《けねん》は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋《しゅうろう》な宮刑《きゅうけい》にあおうとは! 迂闊《うかつ》といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有《も》っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨《こうがい》の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒《と》には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判《わか》ってくるのだと。司馬遷《しばせん》は自分を男[#「男」に傍点]だと
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