えんてい》単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王《さけんおう》、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛があり、閼氏《えんし》や衛律《えいりつ》らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難《かた》くない。
 漢書《かんじょ》の匈奴伝《きょうどでん》には、その後、李陵の胡地で儲《もう》けた子が烏籍都尉《うせきとい》を立てて単于とし、呼韓邪《こかんや》単于《ぜんう》に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝《せんてい》の五鳳《ごほう》二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。



底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボラン
前へ 次へ
全89ページ中88ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング