蝉《せみ》の声に耳をすましているようにみえた。歓《よろこ》びがあるはずなのに気の抜けた漠然《ばくぜん》とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷《ひど》い虚脱の状態が来た。憑依《ひょうい》の去った巫者《ふしゃ》のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄《ふ》けた。武帝の崩御《ほうぎょ》も昭帝の即位もかつてのさきの太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》の脱殻《ぬけがら》にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政《じんりっせい》らが胡地《こち》に李陵《りりょう》を訪《たず》ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡《な》かった。

 蘇武《そぶ》と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平《げんぺい》元年に胡地《こち》で死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》は死に、その子|壺衍※[#「革+是」、第3水準1−93−79]《こえんてい》単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王《さけんおう》、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛があり、閼氏《えんし》や衛律《えいりつ》らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難《かた》くない。
 漢書《かんじょ》の匈奴伝《きょうどでん》には、その後、李陵の胡地で儲《もう》けた子が烏籍都尉《うせきとい》を立てて単于とし、呼韓邪《こかんや》単于《ぜんう》に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝《せんてい》の五鳳《ごほう》二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。



底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボラン
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