て彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴《きょうど》の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己《おのれ》の刀環《とうかん》を撫《な》でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応《こた》えるべきかを知らない。
公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯《ばくぎ》とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令《たいしゃれい》が降り万民は太平の仁政《じんせい》を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟《かくしもう》・上官少叔《じょうかんしょうしゅく》が主上を輔《たす》けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律《えいりつ》をもって完全に胡人《こじん》になり切ったものと見做《みな》して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚《はばか》った。ただ霍光《かくこう》と上官桀《じょうかんけつ》との名を挙《あ》げて陵の心を惹《ひ》こうとしたのである。陵は黙《もく》して答えない。しばらく立政《りっせい》を熟視してから、己《おの》が髪を撫《な》でた。その髪も椎結《ついけい》とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更《か》えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字《あざな》を呼んだ。少卿《しょうけい》よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟《かくしもう》と上官少叔《じょうかんしょうしゅく》からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴《ふうき》などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武《そぶ》の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易《やす》い。だが、また辱《はずか》しめを見るだけのことではないか? 如何《いかん》?」言葉半ばにして衛律が座に還《かえ》ってきた。二人は口を噤《つぐ》んだ。
会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。
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