畢竟《ひっきょう》なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉《こつにく》相《あい》喰《は》む内乱や功臣連の排斥《はいせき》擠陥《せいかん》の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人《ぶじん》たる彼は今までにも、煩瑣《はんさ》な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗《こぞく》の粗野《そや》な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙《はる》かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏《しょか》の俗を正しきもの、胡俗《こぞく》を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字《あざな》がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人《おとな》しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろく[#「ろく」に傍点]に口も利《き》けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝《ひざ》に匍上《はいあ》がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前|長安《ちょうあん》に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤《おもかげ》をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然《ぶぜん》とするのであった。

 陵が匈奴《きょうど》に降《くだ》るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将《ちゅうろうしょう》蘇武《そぶ》が胡地《こち》に引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜《ほりょ》交換のために遣《つか》わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛《ないふん》に関係したために、使節団全員が囚《とら》えられることになってしまった。単于《ぜんう》は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅《おびや》かしてこれを降《くだ》らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯《がえ》んじないばかりか、辱《はずか》しめを避けようと自《みずか》ら剣を取って己《おの》が胸を貫いた。昏倒《こんとう》した蘇武に対する胡※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2−78−8]《こい》の手当てというのがすこぶる変わってい
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