わせようとする。怨恨《えんこん》が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣《かんしん》に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的[#「副次的」に傍点]な悪さである。それに、自矜心《じきょうしん》の高い彼にとって、彼ら小人輩《しょうじんはい》は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物[#「好人物」に傍点]というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣《かんしん》や酷吏《こくり》よりも始末が悪い。少なくとも側《かたわら》から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪《け》しからぬのだ。弁護もしなければ反駁《はんばく》もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相《じょうしょう》公孫賀《こうそんが》のごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛《あゆ》迎合《げいごう》を事としても、杜周《としゅう》(最近この男は前任者|王卿《おうけい》を陥れてまんまと御史大夫《ぎょしたいふ》となりおおせた)のような奴《やつ》は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
 司馬遷は最後に忿懣《ふんまん》の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵《りりょう》のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別|拙《まず》かったとは考えぬ。阿諛《あゆ》に堕《だ》するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受《かんじゅ》しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解《しかい》されようと腰斬《ようざん》にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑《きゅうけい》は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切
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