からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ちはじめると決《きま》って漢の北辺には、胡馬《こば》に鞭《むち》うった剽悍《ひょうかん》な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠《かす》められ、家畜が奪略される。五原《ごげん》・朔方《さくほう》・雲中《うんちゅう》・上谷《じょうこく》・雁門《がんもん》などが、その例年の被害地である。大将軍|衛青《えいせい》・嫖騎《ひょうき》将軍|霍去病《かくきょへい》の武略によって一時|漠南《ばくなん》に王庭なしといわれた元狩《げんしゅ》以後|元鼎《げんてい》へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病《かくきょへい》が死んでから十八年、衛青《えいせい》が歿《ぼっ》してから七年。※[#「さんずい+足」、第4水準2−78−51]野侯《さくやこう》趙破奴《ちょうはど》は全軍を率いて虜《ろ》に降《くだ》り、光禄勲《こうろくくん》徐自為《じょじい》の朔北《さくほく》に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋《つな》ぐに足る将帥《しょうすい》としては、わずかに先年|大宛《だいえん》を遠征して武名を挙《あ》げた弐師《じし》将軍|李広利《りこうり》があるにすぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴《きょうど》の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉《しゅせん》を出た。しきりに西辺を窺《うかが》う匈奴の右賢王《うけんおう》を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重《しちょう》のことに当たらせようとした。未央宮《びおうきゅう》の武台殿《ぶだいでん》に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍《ひしょうぐん》と呼ばれた名将|李広《りこう》の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射《きしゃ》の名手で、数年前から騎都尉《きとい》として西辺の酒泉《しゅせん》・張掖《ちょうえき》に在《あ》って射《しゃ》を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重《しちょう》の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆|荊楚《けいそ》の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出《い》
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