逐《お》われて西辺に遷《うつ》り住んだ。それら寡婦《かふ》のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客《とくい》とする娼婦《しょうふ》となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北《ばくほく》まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬《き》るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間《たにま》の凹地《おうち》に引出された女どもの疳高《かんだか》い号泣《ごうきゅう》がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑《の》まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然《しゅくぜん》たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄|屍体《したい》三千余。連日の執拗《しつよう》なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄《にわ》かに奮《ふる》い立った形である。次の日からまた、もとの竜城《りゅうじょう》の道に循《したが》って、南方への退行が始まる。匈奴《きょうど》はまたしても、元の遠巻き戦術に還《かえ》った。五日め、漢軍は、平沙《へいさ》の中にときに見出《みいだ》される沼沢地《しょうたくち》の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘《でいねい》も脛《はぎ》を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原《かれあしはら》が続く。風上《かざかみ》に廻《まわ》った匈奴の一隊が火を放った。朔風《さくふう》は焔《ほのお》を煽《あお》り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦《あし》に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地《そじょち》の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜|泥濘《でいねい》の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿《たど》りついたとたんに、先廻《さきまわ》りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭《あ》った。人馬入乱れての搏兵《はくへい》戦である。騎馬隊の烈《はげ》しい突撃を避けるため、李陵は車を棄《す》てて、山麓《さんろく》の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于《ぜんう》とその親衛隊とに向かって、一時に連弩《れんど》を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青
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