た進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨《ほしょう》が見るともなくこの爛々《らんらん》たる狼星《ろうせい》を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨《おお》きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨《ほしょう》が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯《ひ》はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
 歩哨《ほしょう》の報告に接した李陵《りりょう》は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷《らい》のごとき鼾声《かんせい》を立てて熟睡した。
 翌朝李陵が目を醒《さ》まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟《ほこ》と盾《たて》とを持った者が前列に、弓弩《きゅうど》を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾《はさ》んだ二つの山はまだ暁暗《ぎょうあん》の中に森閑《しんかん》とはしているが、そこここの巌蔭《いわかげ》に何かのひそんでいるらしい気配《けはい》がなんとなく感じられる。
 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴《きょうど》は、単于《ぜんう》がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧《わ》いた。天地を撼《ゆる》がす喊声《かんせい》とともに胡兵《こへい》は山下に殺到した。胡兵の先登《せんとう》が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声《こせい》が響く。たちまち千弩《せんど》ともに発し、弦に応じて数百の胡兵《こへい》はいっせいに倒れた。間髪《かんはつ》を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者《じげきしゃ》らが襲いかかる。匈奴《きょうど》の軍は完全に潰《つい》えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首《りょしゅ》を挙げること数千。
 鮮《あざ》やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。そ
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