った。
二月《ふたつき》の後、たまたま家に帰って妻といさかい[#「いさかい」に傍点]をした紀昌がこれを威《おど》そうとて烏号《うごう》の弓に※[#「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−9]衛《きえい》の矢をつがえきりり[#「きりり」に傍点]と引絞《ひきしぼ》って妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主《ていしゅ》を罵《ののし》り続けた。けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。
彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外《ほか》に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。秘《ひそ》かにその機会を窺《うかが》っている中に、一日たまたま郊野《こうや》において、向うからただ一人歩み来る飛衛に出遇《であ》った。とっさに意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配を察して飛衛もまた弓を執《と》って相
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