ある。三度紀昌が真面目《まじめ》な顔をして同じ問を繰返《くりかえ》した時、始めて主人の顔に驚愕《きょうがく》の色が現れた。彼は客の眼を凝乎《じっ》と見詰める。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖《きょうふ》に近い狼狽《ろうばい》を示して、吃《ども》りながら叫んだ。
「ああ、夫子《ふうし》が、――古今無双《ここんむそう》の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途《みち》も!」
 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠《かく》し、楽人は瑟《しつ》の絃《げん》を断ち、工匠《こうしょう》は規矩《きく》を手にするのを恥《は》じたということである。[#地から1字上げ](昭和十七年十二月)



底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
初出:「文庫」
   1942(昭和17)年12月号
入力:大内章
校正:j.utiya
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