の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと。紀昌の家に忍び入らうとした所、塀に足を掛けた途端に一道の殺氣が森閑とした家の中から奔り出てまとも[#「まとも」に傍点]に額を打つたので、覺えず外に顛落したと白状した盜賊もある。爾來、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなつた。
 雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益※[#二の字点、1−2−22]枯淡虚靜の域にはひつて行つたやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、つひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが老名人晩年の述懷である。
 甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は靜かに、誠に煙の如く靜かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かつた。口にさへしなかつた位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としてはここで老人に掉尾の大活躍をさせて、名人の眞に名人たる所以を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事實を曲げる譯には行かぬ。實際、老後の彼に就いては唯無爲にして化したとばかりで、次の樣な妙な話の外には何一つ傳はつてゐないのだから。
 その話といふのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行つた所、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしても其の名前が思出せぬし、其の用途も思ひ當らない。老人は其の家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用ひるのかと。主人は、客が冗談を言つてゐるとのみ思つて、ニヤリととぼけ[#「とぼけ」に傍点]た笑ひ方をした。老紀昌は眞劍になつて再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた樣子である。三度紀昌が眞面目な顏をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顏に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎《じつ》と見詰める。相手が冗談を言つてゐるのでもなく、氣が狂つてゐるのでもなく、又自分が聞き違へをしてゐるのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。
「ああ、夫子が――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓といふ名も、その使ひ途も!」
 其の後當分の間、邯鄲の都では、畫家は繪筆を隱し、樂人は瑟の絃を斷ち、工匠は規矩を手にするのを恥ぢたといふことである。



底本:「中島敦全集 第4巻」文治堂書店
   1967(昭和42)年6月末第3版刊行
※「蝿」と「蠅」の混在は底本通りにしました。
入力:Hitoshi Nagano
校正:j.utiyama
1998年10月26日公開
2008年6月22日修正
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