いまだかつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかったはずである。いつも三造、三造の呼棄《よびすて》であった。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰えを見たというよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になっているのではないかというような不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもって階段を下りて行った。
表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物も持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、がんじがらめ[#「がんじがらめ」に傍点]にした行李《こうり》を一つ車の中へ運んでくれた。
車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。――伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。――その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。この禅問答のような仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかったけれど、とにかく無意味にうなずいて見せた。伯父はやっと気がすんだような顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせている時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭――たしかに、それは一円二十銭――払っているのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決っていたものだ。)やっと、さっきの指の意味が分った。右の一本は一円――円タクというからには一円にきまっていると伯父は考えたのだ――で、左の二本は二十銭だったのである。彼も今更とめるわけにも行かず微笑《わら》いながら伯父の動作を眺めていた。三造などに聞かなくとも、この大都会の交通機関の習慣位は、ちゃんと心得ているぞと言った風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを。恐らく、伯父は、割増一人ごとに二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあろうか。
それから一月ほどたって、大山から手紙が来た。身体の工合がますますよくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどが認《したた》められていた。が、「瀕死」とか「死期が近づいた」とか言う字句が彼に何か実感の伴わないものを感じさせると同時に、かえってそうい
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