に作って来る。昔の神事に使った極めて古い実物《もの》だと言って、相当に高く売りつけられたものが、実は極く新しい贋物だったりする。私が腹を立てて叱っても、初めは自分の製作品が正確なことを主張して容易に譲らない。種々な動かし難い証拠を示してきめつけると、遂に、何時ものニヤニヤ笑いを浮かべたまま黙って了う。「舟型霊代《カエップ》に余計な飾を付けたのは、先生(私のことだ)を喜ばせようと思ったからだ」などと言うこともある。模型は絶対に正確でなければならぬ、金が欲しさに怪しげな贋物を持って来てはならぬ、と私が厳しく言うと、大人しく頭を下げて帰って行く。その後当分はちゃんとした物を拵《こしら》えて持って来るが、一月たち二月たつ中に、又、元の出鱈目に戻って了う。気が付いて、以前買上げた彼の製作品の全部を調べ直して見ると、迂闊《うかつ》にも半ば以上は極く気の付かぬ箇所で手の省かれた代物だったり、実際には存在しないマルクープ爺さんの勝手な創作だったりした。
 当時パラオ地方に「神様事件」といわれるものが起っていた。パラオ在来の俗信と基督《キリスト》教とを混ぜ合せた一種の新宗教結社が島民の間に出来上り、それが治安に害ありと見做されて、「神様狩」の名の下に、其の首脳部に対する手入が行われていた。この結社は北はカヤンガル島から南はペリリュウ島に至る迄相当根強く喰込んでいたが、当局は島民間の勢力争いや個人的反感などを巧みに利用して、着々と摘発検挙をすすめて行った。警務課にいる一人の知人から偶々《たまたま》私は妙な話を耳にした。かのマルクープ爺さんが神様狩の殊勲者だというのである。よく聞いて見ると検挙は大部分島民の密告を利用するのだが、マルクープは其の最も常習的な密告者で、彼の密告によって多くの大もの[#「大もの」に傍点]が捕えられ、老人自身も亦既に相当多額の賞金を貰っている筈だという。尤《もっと》も、時には私怨から其の信者でない者迄告発して来ることも確かにあるらしいが、と其の知人は笑いながら語った。新宗派の正邪は知らず、とにかく密告という行為は私にとって甚だ不愉快に感じられた。
 数日後、マルクープ老人の一寸した誤魔化しに対して酷く私を腹立たせたものは、或いは此の不愉快さだったかも知れぬ。実際、何もそんなに怒る程の事ではなかった。それは、一寸した細工の上の無精と一寸した貪慾とに過ぎなかったのだ。それに対して私は、あとで考えて見て可笑しく思った程むき[#「むき」に傍点]になって怒鳴り立てた。老人は最早瞼をつまみ上げることも薄笑いを浮かべることも止めて、神妙に、というより呆気《あっけ》にとられたように、私の前に突立っていた。よせばいいのに、私は斯んな事まで言って了ったらしい。金が欲しさに親しい友人迄裏切るような下劣な奴に、もう私の仕事は頼もうと思わぬと。その他何やかや大きな声で私は彼を叱り付けたようである。暫くしてひょいと気が付くと、老人は何時か石の様な無表情さになっており、私の声も聞かなければ私の存在をも認めていない様子である。先程述べたあの不思議な状態、凡《すべ》ての感覚に蓋《ふた》をした・外界との完全な絶縁状態に陥っていたのである。私は驚いたが今更急に折れて機嫌をとる訳にも行かない。それに今となっては、何を言おうが何をしようが、凡てを閉じ円くなって武装した穿山甲《アルマジロ》の様に、彼は何ものをも知覚しないであろう。
 沈黙の半時間の後、ふと我に返ったように老人は身を動かし、すうっと私の部屋から出て行った。
 一時間ばかりして、私は、先刻――老人が来る前に確か机の上に置いた筈の懐中時計が見えなくなっているのに気が付いた。部屋中探したが見当らぬ。服のポケットにも無い。父親譲りの古いウォルサムもので、潮気と暑気とのために懐中時計の狂い勝ちな南洋にあっても、容易に狂いを見せない上等品である。以前マルクープが此の時計を、殊に其の銀の鎖を大変珍しがって、手に取ってはおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にしていたことのあったのを、私は思い出した。私は直ぐに表へ出て彼の小舎を訪ねて行った。小舎の中には誰もいなかった。(彼は独り者なのである。)それから二三日続けて毎日寄って見たが、何時も小舎は空っぽである。近処の島民に聞くと、二日程前|本島《ほんとう》の何処とかへ行くと言って出掛けたきり帰って来ないのだという。
 爾後《じご》、マルクープ老人は再び私の前に現れなかった。

 それから二月程して、私は東の島々――中央カロリンからマーシャルへ掛けての長期に亘《わた》る土俗調査に出掛けた。調査は約二ヶ年を要した。
 二年経って再びパラオに戻って来た私は、コロールの町に著しく家々が殖えたことに驚き、島民等が大変に如才無く狡くなって来たように感じた。
 パラオへ帰って一月も経った頃、或日ひょっこりマルクープ老人が訪ねて来た。私が帰って来たことを人から聞いて直ぐにやって来たのだと言った。ひどい窶《やつ》れようである。瞼が両眼に蔽いかぶさっているのは以前と変りないが、歯でも抜けたように頬が落ち込んで、背中の曲り様も前より甚だしく、それに何よりも驚かされたのは、声が非常にかすれて了って内証話のように聞えることであった。全体の感じが二年前より十も歳をとったような工合《ぐあい》である。以前の懐中時計の一件を忘れた訳ではなかったが、此の老い込んだ姿を前にしては、流石《さすが》にそれは言出せなかった。どうした、大変弱ってるようじゃないか、と言えば、病気が悪いと答え、実は其の事でお願があるのですと言った。老人は半年程前から酷く弱って来、咽喉《のど》が詰まるようで呼吸が苦しいので、パラオ病院に通っている。しかし、一向に治りそうもない。いっそパラオ病院をやめてレンゲさんの所へ行ったらどうだろうと思うのだが、と老人は言った。レンゲというのは独逸《ドイツ》人で長くオギワル村に住んでいる宣教師だが、中々教養のある男で、それに相当医薬の道にも通じていたらしい。時々島民の病人を診ては薬を与えている中に、其の評判がパラオ土民の間に高くなり、パラオ病院よりも良く治ると本気で信じている島民も少くなかった。マルクープ老人はパラオ病院に見切をつけて、此のレンゲ師の所へ診て貰いに行きたいのである。「しかし」と爺さんは言う。「パラオ病院は役所の病院だから、勝手に其処をやめてレンゲさんの所へ行ったら、院長さんにも怒られるし、警務の人にも怒られる。(まさかそんな事はあるまいと私は笑ったが、爺さんは頑固にそう信じていた)それで先生は(と私のことを言って)院長さんとコンパニイ(友達)だから、どうか院長さんの所へ行って巧く話して、私がレンゲさんの所へ行くことを許して貰って下さい」と。嗄《しわが》れた声でそれを言う態度が如何《いか》にも哀願的で、又瀕死の老人といった印象を与えたので、私も其の莫迦《ばか》げた依頼を引受けない訳に行かなかった。
 院長の所へ行って話して見ると、あれはもう喉頭癌とか喉頭結核とかで(どちらだか今は忘れた)到底助かる見込は無いのだから、レンゲの所へ行くなり何なり、もう本人の好きなようにさせた方がよかろうという。
 院長の許しがあった旨を翌日マルクープ老人に伝えてやると、ひどく彼は喜んだ様子であった。聞きとりにくい声で繰返し繰返し礼を述べ、曾《かつ》て私がどんな多額の金をやった時にも見せなかった程幾度も幾度も頭を下げた。何故こんな詰まらない事をこんなに有難がるのか、却《かえ》って此方《こちら》が面喰って了った位である。
 その後暫く私はマルクープの消息を聞かなかった。

 三月ばかりも経った頃であったろうか。見たことのない土民青年が一人、私を訪ねて来た。マルクープに頼まれて来たものだと言い、手に提げた椰子の葉のバスケットを私の前に差出した。椰子の葉の粗い編目の間から、一羽の牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《めんどり》が首を出してククーと鳴いた。此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》を届けるように頼まれたのだという。マルクープは其の後どうしている? と問えば、十日ばかり前に死にましたという返事である。欣《よろこ》んでオギワルのレンゲの所へ治療を受けに行ったが、病気は少しもよくならず、到頭その村の親戚の家で死んだということであった。何故※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を私などへ贈るように遺言したのだろうかと聞いても、若者はブッキラボウに、知らぬ、自分は唯故人のいいつけ通りに事を運んだ迄だ、と答えて、さっさと帰って行った。
 二三日後の或夕方、又一人の別の土民青年が私の家の裏口からはいって来た。無愛想な顔をして私の前に立つと、驚いたことに、此の男も亦※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の入った椰子の葉のバスケットを差出した。マルクープ爺さんから、と言っただけで、怒った様な顔をした其の若者はくるりと後を向いて、又裏口から出て行った。
 直ぐ翌日、又一人来た。今度は前の二人より余程愛想のいい・年齢も少しは上らしい男である。マルクープの親戚だといい、死んだ爺さんに頼まれましたとて、椰子バスケットを差出した。今度はもう驚きはせぬ。又、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]であろう。そうだ。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]であった。何故こんな贈り物を私が受けるのかと聞くと、爺さんが生前先生には大変お世話になったと言っていましたから、と言った。何故三羽も――それも三回別々の人間に持たせてよこしたのか、という私の疑問に就いては、其の島民は次の様な説明を与えた。恐らく、一人だけに頼んだのでは、猫婆《ねこばば》される懼《おそれ》が充分にある故、老人は万全を期して三人に同じ事を委嘱したのであろうと。「島民の中には約束を守らぬ者が多いですから」というのが、最後に其の島民の附加えた言葉である。
 島民の生活に於て※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が如何に大切なものとされているかを熟知している私は、三羽の生きた牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を前にして、少からず感動した。しかし、それにしても、死んだ爺さんは一体院長に斡旋《あっせん》した私の親切(もしもそれが親切といえるならばだが)に対して報いたのだろうか。それとも、嘗て私の時計を失敬したことに対する謝罪のつもりだろうか。いやいや、あんな昔のことを彼が今迄憶えている筈が無い。憶えていたにしても、其の償いのつもりならば、当の時計を返してよこせばいいのに、あのウォルサムは一体どうしたのであろうか。いや、あの時計自体よりも、あの時計の事件によって私の心象に残された彼の奸悪さと、今の此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の贈り物とをどう調和させて考えればいいのだろう。人間は死ぬ時には善良になるものだ、とか、人間の性情は一定不変のものではなく同じものが時に良く時に悪くなるのだ、とかいう説明は、私を殆ど満足させない。その不満は、実際にあの爺さんの声、風貌、動作の一つ一つを知りつくして、さて最後に、それ等からは、凡そ期待されない此の三羽の牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]にぶつかった私一人だけの感ずるものなのかも知れない。そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのでもあろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入《ひとしお》深くしたことであった。



底本:「中島敦全集 2」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年3月24日第1刷発行
   2003(平成15)年3月20日第6刷発行
※ファイル冒頭の作品名、著者名等は、XHTMLファイルにおける外字画像化の対象外としています。そこで同ファイルでの視認性を考慮して、表題に用いられている「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]には異体字の「鶏」をそえました。 
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振り
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング