に手の生えている蜈蚣《むかで》でも遣《や》り切れまいと思われる程だ。其等《それら》の用をいいつける主人というのが、昼間は己の最も卑しい下僕である筈の男である。之が又ひどく意地悪で、次から次へと無理をいう。大蛸には吸い付かれ、車渠貝には足を挟まれ、鱶には足指を切られる。食事はといえば、芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]ばかり。毎朝、彼が母屋《おもや》の中央の贅沢な呉蓙《ござ》の上で醒を覚ます時は、身体は終夜の労働にぐったりと疲れ、節々《ふしぶし》がズキズキと痛むのである。毎晩斯ういう夢を見ている中に、第一長老の身体から次第に脂気がうせ、出張った腹が段々しぼんで来た。実際芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]ばかりでは、誰だって痩せる外はない。月が三回|盈欠《みちかけ》する中に長老はみじめに衰えて、いやな空咳までするようになった。
 竟《つい》に、長老が腹を立てて下僕を呼びつけた。夢の中で己を虐《しいた》げる憎むべき男を思いきり罰してやろうと決心したのである。
 所が、目の前に現れた下僕は、嘗《かつ》ての痩せ衰えた・空咳をする・おどおどと畏れ惑《まど》う・哀れな小心者ではなかった。何時の間にかデップリと肥り、顔色も生き生きとして元気一杯に見える。それに、其の態度が如何《いか》にも自信に充ちていて、言葉こそ叮寧《ていねい》ながら、どう見ても此方の頤使に甘んずるものとは到底思われない。悠揚たる其の微笑を見ただけで、長老は相手の優勢感にすっかり圧倒されて了《しま》った。夢の中の虐待者に対する恐怖感迄が甦って来て彼を脅した。夢の世界と昼間の世界と、何《いず》れがより[#「より」に傍点]現実なのかという疑が、チラと彼の頭を掠《かす》めた。痩せ衰えた自分の如き者が今更咳をしながら此の堂々たる男を叱り付けるなどとは、思いも寄らぬ。
 長老は、自分でも予期しなかった程の慇懃《いんぎん》な言葉で、下男に向い、彼が健康を回復した次第を尋ねた。下男は詳しく夢のことを語った。如何に彼が夜毎美食に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》き足るか。如何に婢僕《ひぼく》にかしずかれて快い安逸を娯《たの》しむか。如何に数多の女共によって天国の楽しみを味わうか。
 下僕の話を聞き終って、長老は大いに驚いた。下男の夢と己《おのれ》の夢との斯《か》くも驚くべき一致は何に基づくのか。夢の世界の栄養が醒めたる世界の肉体に及ぼす影響は、又斯くの如く甚だしいのか。夢の世界が昼の世界と同じく(或いはそれ以上に)現実であることは、最早疑う余地が無い。彼は、恥を忍んで、下男に己が毎夜の夢のことを告げた。如何に自分が夜毎劇しい労働を強いられるか。如何に芋の尻尾と魚のあら[#「あら」に傍点]とだけで我慢せねばならぬか。
 下男はそれを聞いても一向に驚かぬ。さもあろうと云った顔付で、疾《とっ》くに知っていた事を聞くように、満足げな微笑を湛えながら鷹揚《おうよう》に頷《うなず》く。其の顔は、誠に、干潟《ひがた》の泥の中に満腹して眠る海鰻《カシボクー》の如く、至上の幸福に輝いている。この男は、夢が昼の世界よりも一層現実であることを既に確信しているのであろう。アアと心からの溜息を吐《つ》きながら、哀れな富める主人は貧しく賢い下僕の顔を嫉《ねた》ましげに眺めた。
 
  ×  ×  ×

 右は、今は世に無きオルワンガル島の昔話である。オルワンガル島は、今から八十年ばかり前の或日、突然、住民|諸共《もろとも》海底に陥没して了った。爾来《じらい》、この様な仕合わせな夢を見る男はパラオ中にいないということである。



底本:「中島敦全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年3月24日第1刷発行
入力:ちょも
校正:田中久絵
1999年8月6日公開
2004年2月4日修正
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