子路としてはまず己の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動《せんどう》を始めた。太子は音に聞えた臆病者《おくびょうもの》だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49])を舎《ゆる》すに決っている。火を放《つ》けようではないか。火を!
 既に薄暮《はくぼ》のこととて庭の隅々《すみずみ》に篝火《かがりび》が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
 台の上の簒奪者《さんだつしゃ》は大いに懼れ、石乞《せききつ》・盂黶《うえん》の二剣士に命じて、子路を討たしめた。
 子路は二人を相手に激《はげ》しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労《ひろう》が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟《きし》を明らかにした。罵声《ばせい》が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体《からだ》に当った。敵の戟《ほこ》の尖端《さき》が頬《ほお》を掠《かす》めた。纓《えい》(冠の紐《ひも》)が断《き》れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸《ほとばし》り、子路は倒《たお》れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸《の》ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃《やいば》の下で、真赤《まっか》に血を浴びた子路が、最期《さいご》の力を絞《しぼ》って絶叫《ぜっきょう》する。
「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身|膾《なます》のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴《さい》(子羔)や、それ帰らん。由《ゆう》や死なん。」と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目《ちょりつめいもく》することしばし、やがて潸然《さんぜん》として涙下った。子路の屍《しかばね》が醢《ししびしお》にされたと聞くや、家中の塩漬類《しおづけるい》をことごとく捨てさせ、爾後《じご》、醢は一切|食膳《しょくぜん》に上さなかったということである。
[#地から1字上げ](昭和十八年二月)



底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
入力:大内章
校正:川向直樹
2004年9月25日作成
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