だと聞かされた時、彼は愕然《がくぜん》として懼《おそ》れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉《と》じ籠《こも》り、静思して喰《くら》わず、もって骨立《こつりつ》するに至った。数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐《おそ》る恐る弾じた。その音を洩《も》れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎《とが》めるような顔色も見えない。子貢《しこう》が子路の所へ行ってそのむねを告げた。師の咎が無かったと聞いて子路は嬉《うれ》しげに笑った。
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔《えがお》を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明《そうめい》な子貢はちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]知っている。子路の奏《かな》でる音が依然《いぜん》として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩《や》せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍《あわれ》まれたために過ぎないことを。
五
弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者は無い。子路ほど遠慮《えんりょ》なく師に反問する者もない。「請《こ》う。古の道を釈《す》て
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