な没利害性[#「没利害性」に傍点]のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀《まれ》なので、子路のこの傾向《けいこう》は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚《おろ》かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。

 師の言に従って己《おのれ》を抑《おさ》え、とにもかくにも形[#「形」に傍点]に就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚《しんせき》中の評判である。褒《ほ》められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘《うそ》ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘《わがまま》を云って親を手古摺《てこず》らせていた頃《ころ》の方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽《いつわ》りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理|分析家《ぶんせきか》ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時|突然《とつぜん》、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪《なみだ》が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的《けんしんてき》なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄《にわ》か孝行はこんな工合《ぐあい》であった。

     三

 ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二三に出会った。無頼とは云えぬまでも放縦《ほうじゅう》にして拘《こだ》わる所の無い游侠の徒である。子路は立止ってしばらく話した。その中《うち》に彼|等《ら》の一人が子路の服装《ふくそう》をじろじろ見廻《みまわ》し、やあ、これが儒服という奴《やつ》か? 随分《ずいぶん》みすぼらしいなり[#「なり」に傍点]だな、と言った。長剣が恋《こい》しくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞捨《ききずて》のならぬことを言出した。どうだい。あの孔丘という先生はなかなかの喰《く》わせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘《あま》い汁《しる》が吸えるものと見えるなあ。別に悪意がある訳ではなく、心安立《こころやすだ》てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉《むなぐら》を掴《つか》み、右手の拳《こぶし》をしたたか横面《よこつら》に飛ばした。二つ三つ続け様に喰《くら》わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒《たお》れた。呆気《あっけ》に取られている他の連中に向っても子路は挑戦的《ちょうせんてき》な眼を向けたが、子路の剛勇《ごうゆう》を知る彼等は向って来ようともしない。殴《なぐ》られた男を左右から扶《たす》け起し、捨台詞《すてぜりふ》一つ残さずにこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と立去った。

 いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触《ふ》れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古《いにしえ》の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴《しんぼう》ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力《わんりょく》の必要を見ぬゆえんである。とかく小人は不遜《ふそん》をもって勇と見做《みな》し勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂《いい》である云々。神妙に子路は聞いていた。

 数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭《こかげ》で閑人達《かんじんたち》の盛《さか》んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。――昔《むかし》、昔、と何でも古《いにしえ》を担《かつ》ぎ出して今を貶《おと》す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規《しゃくしじょうぎ》にそのまま履《ふ》んで、それで巧《うま》く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺《おれ》達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様《ようこさま》の方が偉いということになるのさ。
 下剋上《げこくじょう》の世であった。政治の実権が魯侯《ろこう》からその大夫たる季孫氏《きそんし》の手に移り、それが今や更《さら》に季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。
 ――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎《むか》えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避《さ》けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで[#「まるで」に
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