一日葉公の家に降《くだ》り己《おのれ》の愛好者を覗《のぞ》き見た。頭は※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]《まど》に窺《うかが》い尾《お》は堂に※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]《ひ》くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るや怖《おそ》れわなないて逃《に》げ走った。その魂魄《こんぱく》を失い五色主無《ごしきしゅな》し、という意気地無さであった。
 諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓《こくひん》として遇《ぐう》しようという国はある。孔子の弟子の幾人《いくにん》かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。匡《きょう》では暴民の凌辱《りょうじょく》を受けようとし、宋では姦臣《かんしん》の迫害《はくがい》に遭《あ》い、蒲《ほ》ではまた兇漢《きょうかん》の襲撃《しゅうげき》を受ける。諸侯の敬遠と御用《ごよう》学者の嫉視と政治家連の排斥《はいせき》とが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
 それでもなお、講誦を止めず切磋《せっさ》を怠《おこた》らず、孔子と弟子達とは倦《う》まずに国々への旅を続けた。「鳥よく木を択《えら》ぶ。木|豈《あ》に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗《す》ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等《おのれら》の用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で[#「本気で」に傍点]――全く呆《あき》れたことに本気で[#「本気で」に傍点]そう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠に不思議な一行であった。
 一行が招かれて楚《そ》の昭王の許《もと》へ行こうとした時、陳《ちん》・蔡《さい》の大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧《おそ》れこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥《おちい》った。糧道《りょうどう》が絶たれ、一同火食せざること七日に及《およ》んだ。さすがに、餒《う》え、疲《つか》れ、病者も続出する。弟子達の困憊《こんぱい》と恐惶《きょうこう》との間に在って孔子は独り気力少しも衰《おとろ》えず、平生通り絃歌して輟《や》まない。従者等の疲憊《ひはい》を見るに見かねた子路が、いささか色を作《な》して、絃歌する孔子の側《そば》に行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。
「由《ゆう》よ。吾《われ》汝に告げん。君子|楽《がく》を好むは驕《おご》るなきがためなり。小人楽を好むは懾《おそ》るるなきがためなり。それ誰《だれ》の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
 子路は一瞬《いっしゅん》耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思い到《いた》ると、途端《とたん》に彼は嬉しくなり、覚えず戚《ほこ》を執って舞《ま》うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度《みたび》めぐった。傍にある者またしばらくは飢《うえ》を忘れ疲を忘れて、この武骨な即興《そっきょう》の舞《まい》に興じ入るのであった。

 同じ陳蔡の厄《やく》の時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂《いい》に非ずや。今、丘《きゅう》、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体|瘁《つか》るるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。但《ただ》、小人は窮すればここに濫《みだ》る。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔を赧《あか》らめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子の容《すがた》を見ては、大勇なる哉《かな》と嘆ぜざるを得ない。かつての自分の誇《ほこり》であった・白刃《はくじん》前《まえ》に接《まじ》わるも目まじろがざる底《てい》の勇が、何と惨《みじ》めにちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]なことかと思うのである。

     十一

 許《きょ》から葉《しょう》へと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅《おく》れて畑中の路《みち》を歩いて行くと、※[#「くさかんむり/條」、第4水準2−86−62]《あじか》を荷《にな》うた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈《えしゃく》して、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立止って、
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