ば、自分にとって、恩倖《おんこう》、これに過ぎたるは莫《な》い。
 言終って、叢中から慟哭《どうこく》の声が聞えた。袁もまた涙を泛《うか》べ、欣《よろこ》んで李徴の意に副《そ》いたい旨《むね》を答えた。李徴の声はしかし忽《たちま》ち又先刻の自嘲的な調子に戻《もど》って、言った。
 本当は、先《ま》ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己《おのれ》の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕《おと》すのだ。
 そうして、附加《つけくわ》えて言うことに、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]が嶺南からの帰途には決してこの途《みち》を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人《とも》を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方《こちら》を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以《もっ》て、再び此処《ここ》を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
 袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は叢に向って、懇《ねんご》ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪《た》え得ざるが如き悲泣《ひきゅう》の声が洩《も》れた。袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
 一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺《なが》めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声|咆哮《ほうこう》したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。



底本:「李陵・山月記」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年9月20日発行
入力:平松大樹
校正:林めぐみ
1998年11月12日公開
2009年11月20日修正
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