た。次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。
 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
 袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。李徴の聲が答へて言ふ。自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめ/\と故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧《きたん》の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。
 後《あと》で考へれば不思議だつたが、其の時、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。都の噂、舊友の消息、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]が現在の地位、それに對
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