光との中で、労働に汗ばんだ皮膚の下に血液の循環を快く感じ、人に嗤《わら》われまいとの懸念を忘れて、真に思う事のみを言い、真に欲する事のみを行う。」之が彼の新しい生活であった。

   二

一八九〇年十二月×日
 五時起床。美しい鳩色の明方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。遥か北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。但し、環礁の外は相変らず怒濤《どとう》の飛沫《しぶき》が白く立っているらしい。耳をすませば、確かに其の音が地鳴のように聞えて来る。
 六時少し前朝食。オレンジ一箇。卵二箇。喰べながらヴェランダの下を見るともなく見ていると、直ぐ下の畑の玉蜀黍《とうもろこし》が二三本、いやに揺れている。おや[#「おや」に傍点]と思って見ている中に、一本の茎が倒れたと思うと、葉の茂みの中に、すうっ[#「すうっ」に傍点]と隠れて了った。直ぐに降りて行って畑に入ると、仔豚が二匹慌てて逃出した。
 豚の悪戯《いたずら》には全く弱る。欧羅巴《ヨーロッパ》の豚のような、文明のために去勢されて了ったものとは、全然違う。実に野性的で活力的で逞《たくま》しく、美しいとさえ言っていいかも知れぬ。私は今迄豚は泳げぬものと思っていたが、どうして、南洋の豚は立派に泳ぐ。大きな黒牝豚《くろめすぶた》が五百|碼《ヤード》も泳いだのを、私は確かに見た。彼等は怜悧《れいり》で、ココナットの実を日向《ひなた》に乾かして割る術《すべ》をも心得ている。獰猛《どうもう》なのになると、時に仔羊を襲って喰殺したりする。ファニイの近頃は、毎日豚の取締りに忙殺されているらしい。
 六時から九時まで仕事。一昨日以来の「南洋だより」の一章を書上げる。直ぐに草刈に出る。土人の若者等が四組に分れて畑仕事と道拓《みちひら》きに従っている。斧《おの》の音。煙の匂。ヘンリ・シメレの監督で、仕事は大いに捗《はかど》っているようだ。ヘンリは元来サヴァイイ島の酋長《しゅうちょう》の息子なのだが、欧羅巴の何処へ出しても恥ずかしくない立派な青年だ。
 生垣の中にクイクイ(或いはツイツイ)の叢生《そうせい》している所を見付けて、退治にかかる。この草こそ我々の最大の敵だ。恐ろしく敏感な植物。狡猾《こうかつ》な知覚――風に揺れる他の草の葉が触れたときは何の反応も示さないのに、ほんの少しでも人間がさわると忽《たちま》ち葉を閉じて了う。縮んでは鼬《いたち》のように噛みつく植物、牡蠣《かき》が岩にくっつくように、根で以て執拗《しつよう》に土と他の植物の根とに、からみ付いている。クイクイを片付けてから、野生のライムにかかる。棘《とげ》と、弾力ある吸盤とに、大分素手を傷められた。
 十時半、ヴェランダから法螺貝《ブウ》が響く。昼食――冷肉・木犀果《アヴォガドオ・ペア》・ビスケット・赤葡萄酒《あかぶどうしゅ》。
 食後、詩を纏《まと》めようとしたが、巧《うま》く行かぬ。銀笛《フラジオレット》を吹く。一時から又外へ出てヴァイトリンガ河岸への径《みち》を開きにかかる。斧を手に、独りで密林にはいって行く。頭上は、重なり合う巨木、巨木。其の葉の隙から時々白く、殆ど銀の斑点《はんてん》の如く光って見える空。地上にも所々倒れた巨木が道を拒んでいる。攀上《よじのぼ》り、垂下り、絡みつき、輪索《わな》を作る蔦葛《つたかずら》類の氾濫《はんらん》。総《ふさ》状に盛上る蘭類。毒々しい触手を伸ばした羊歯《しだ》類。巨大な白星海芋。汁気の多い稚木《わかぎ》の茎は、斧の一振でサクリと気持よく切れるが、しなやかな古枝は中々巧く切れない。
 静かだ。私の振る斧の音以外には何も聞えない。豪華な此の緑の世界の、何という寂しさ! 白昼の大きな沈黙の、何という恐ろしさ!
 突然遠くから或る鈍い物音と、続いて、短い・疳高《かんだか》い笑声とが聞えた。ゾッと悪寒が背を走った。はじめの物音は、何かの木魂《こだま》でもあろうか? 笑声は鳥の声? 此の辺の鳥は、妙に人間に似た叫をするのだ。日没時のヴァエア山は、子供の喚声に似た、鋭い鳥共の鳴声で充たされる。しかし、今の声は、それとも少し違っている。結局、音の正体は判らずじまいであった。
 帰途、ふと一つの作品の構想が浮んだ。この密林を舞台としたメロドラマである。弾丸の様に其の思いつきが(又、その中の情景の一つが)私を貫いたのだ。巧く纏まるかどうか分らないが、とにかく私は此の思いつきを暫く頭の隅に暖めて置こう。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が卵をかえす時のように。
 五時、夕食、ビーフシチウ・焼バナナ・パイナップル入クラレット。
 食後ヘンリに英語を教える。というよりも、サモア語との交換教授だ。ヘンリが毎日毎日、此の憂鬱《ゆううつ》な夕方の勉学に、どうして堪えられるか、不思議でならぬ。(今日は英語だ
前へ 次へ
全45ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング