なければならぬという議論を、雑誌で読んだ。色々な事を言う人があるものだ。自分の恋人ののろけ話と、自分の子供の自慢話と、(もう一つ、昨夜見た夢の話と)――当人には面白かろうが、他人にとって之くらい詰まらぬ莫迦げたものがあるだろうか?
追記――一旦、床に就いてから、種々考えた末、右の考を稍々《やや》訂正せねばならなくなった。自己告白が書けぬという事は、人間としての致命的欠陥であるかも知れぬことに思い到った。(それが同時に、作家としての欠陥になるか、どうか、之は私にとって非常にむずかしい問題だ。或る人々にとっては極めて簡単な自明の問題らしいが。)早い話が、俺にデイヴィッド・カパァフィールドが書けるか、どうか、考えて見た。書けないのだ。何故? 俺は、あの偉大にして凡庸なる大作家程、自己の過去の生活に自信が有てないから。単純平明な、あの大家よりも、遥かに深刻な苦悩を越えて来ているとは思いながら、俺は俺の過去に(ということは、現在に、ということにもなるぞ。しっかりしろ! R・L・S・)自信が無い。幼年少年時代の宗教的な雰囲気。それは大いに書けるし、又書きもした。青年時代の乱痴気騒ぎや、父親との衝突。之も書こうと思えば書ける。むしろ大いに、批評家諸君を悦《よろこ》ばせる程、深刻に。結婚の事情。これも書けないことはないとしよう。(老年に近く、最早女でなくなった妻を前に見ながら、之を書くのは頗《すこぶ》る辛いことには違いないが)しかし、ファニイとの結婚を心に決めながら、同時に俺が、他の女達に何を語り何を為していたかを書くことは? 勿論、書けば、一部の批評家は欣《よろこ》ぶかも知れぬ。深刻無比の傑作現るとか何とか。併し、俺には書けぬ。俺には残念ながら当時の生活や行為が肯定できないから。肯定できないのは、お前の倫理観が、凡《およ》そ芸術家らしくもなく薄っぺらだからだ、という見方もあるのは承知している。人間の複雑性を底まで見極めようとする其の見方も、一応は解らぬことはない。(少くとも他人の場合に、なら。)だが結局、全身的には解らぬ。(俺は、単純|闊達《かったつ》を愛する。ハムレットよりドン・キホーテを。ドン・キホーテよりダルタニアンを。)薄っぺらでも何でも、俺の倫理観は(俺の場合、倫理観は審美感と同じだ。)それを肯定できぬ。では、当時何故そんな事をした? 分らぬ。全く分らぬ。昔は、よく、「弁解は神様だけが御存じだ」と嘯《うそぶ》いたものだが、今は、裸になり、両手を突き、満身の汗をかいて、「分りませぬ」と申します。
一体、俺はファニイを愛していたのか? 恐ろしい問だ。恐ろしい事だ。之も分らぬ。兎に角分っているのは、私が彼女と結婚して今に到っているということだけだ。(抑々《そもそも》愛とは何だ? 之からして分っているのか? 定義を求めているのではない。自己の経験の中から直ぐに引出せる答を有っているか、というのだ。おお、満天下の読者諸君! 諸君は知っておられるか? 幾多の小説の中で幾多の愛人達を描いた小説家ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン氏は、何と、齢《よわい》四十にして未だ愛の何ものなるかを解せぬということを。だが、驚くことはない。試みに古来のあらゆる大作家を拉《らっ》し来って、面と向って此の単純極まる質問を呈して見給え。愛とは何ぞや? と。して、彼等の心情経験の整理箱の中から其の直接の答を求めて見給え。ミルトンもスコットもスウィフトもモリエールもラブレエも、更にはシェイクスピア其の人さえもが、意外にも、驚くべき非常識、乃至《ないし》、未熟を曝露《ばくろ》するに違いないから。)
所で、問題は要するに、作品と、作者の生活との開き[#「開き」に傍点]だ。作品に比べて、悲しいことに、生活が(人間が)余りに低い。俺は、俺の作品のだしがら[#「だしがら」に傍点]? スウプのだしがら[#「だしがら」に傍点]の様な。今にして思う。俺は、物語を書くことしか今迄考えたことがなかった。その一つの目的に向って統一された生活を美しいとさえ自ら感じていた。勿論、作品を書くことが、同時に、人間修業にならなかった、とはいうまい。確かに、なった。しかし、それ以上に、人間的完成に資する所の多い途《みち》は無かったか? (他の世界――行為の世界は病弱な自分に対して閉されていたから、などというのは、卑怯《ひきょう》な遁辞《とんじ》であろう。一生病床にいても、猶《なお》、修業の途はある。勿論、そうした病人の達成する所のものは、余りに偏《かたよ》ったものになりがちだが)自分は余りにも物語道(その技巧的方面)にのみ没入し過ぎてはいなかったか? 漠然とした自己完成のみを目指して生活に一つの実際的焦点を有たぬ者(ソーローを見よ)の危険は、充分考慮に入れた上で、この事を言っているのだ。曾《かつ
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