ロイドといった。ファニイは当時、戸籍の上では未だ米国人オスボーンの妻であったけれど、久しく夫から脱《のが》れて欧洲に渡り、雑誌記者などをしながら、二人の子をかかえて自活していたのである。
 それから三年の後、スティヴンスンは、其の時カリフォルニアに帰っていたファニイの後を追うて、大西洋を渡った。父親からは勘当同様となり、友人達の切なる勧告(彼等は皆スティヴンスンの身体を気遣っていた。)をも斥《しりぞ》けて、最悪の健康状態と、それに劣らず最悪の経済状態とを以て彼は出発した。果して加州に着いた時は、殆ど瀕死《ひんし》の有様だった。しかし、兎に角どうにか頑張り通して生延びた彼は、翌年、ファニイの・前夫との離婚成立を待って漸《ようや》く結婚した。時にファニイは、スティヴンスンより十一歳年上の四十二。前年娘のイソベルがストロング夫人となって長男を挙げていたから、彼女は既に祖母となっていた訳である。
 斯《こ》うして、世の辛酸を嘗《な》めつくした中老の亜米利加《アメリカ》女と、坊ちゃん育ちで、我儘《わがまま》で天才的な若いスコットランド人との結婚生活が始まった。夫の病弱と妻の年齢とは、しかし、二人を、やがて、夫婦というよりも寧《むし》ろ、芸術家と其のマネージャアの如きものに変えて了った。スティヴンスンに欠けている実際家的才能を多分に備えていたファニイは、彼のマネージャアとして確かに優秀であった。が、時に、優秀すぎる憾《うらみ》がないではなかった。殊に、彼女が、マネージャアの分を超えて批評家の域に入ろうとする時に。
 事実、スティヴンスンの原稿は、必ず一度はファニイの校閲を経なければならないのである。三晩|寐《ね》ないで書上げた「ジィキルとハイド」の初稿をストーヴの中に叩き込ませたのは、ファニイであった。結婚以前の恋愛詩を断然差押えて出版させなかったのも、彼女であった。ボーンマスにいた頃、夫の身体の為とはいえ、古い友達の誰彼を、頑として一切病室に入れなかったのも、彼女であった。之にはスティヴンスンの友人達も大分気を悪くした。直情径行のW・E・ヘンレイ(ガルバルジイ将軍を詩人にした様な男だ)が真先に憤慨した。何の為に、あの色の浅黒い・隼《はやぶさ》の様な眼をした亜米利加女が、でしゃばらねばならぬのか。あの女のためにスティヴンスンはすっかり変って了った、と。此の豪快な赤髯《あかひげ》詩人も、自己の作品の中に於てなら、友情が家庭や妻のために蒙《こうむ》らねばならぬ変化を充分冷静に観察できた筈だのに、今、実際眼の前で、最も魅力ある友が一婦人のために奪い去られるのには、我慢がならなかったのである。スティヴンスンの方でも、確かに、フアニイの才能に就いて幾分誤算をしていた所があった。一寸利口な婦人ならば誰しもが本能的に備えている男性心理への鋭い洞察[#「男性心理への鋭い洞察」に傍点]や、又、そのジャアナリスティックな才能を、芸術的な批評能力と買いかぶった所が確かにあった。後になって、彼も其の誤算に気付き、時として心服しかねる妻の批評(というより干渉といっていい位、強いもの)に辟易《へきえき》せねばならなかった。「鋼鉄《はがね》の如く真剣に、刃《やいば》の如く剛直な妻」と、或る戯詩の中で、彼はファニイの前に兜《かぶと》を脱いだ。
 連子のロイドは、義父と生活を共にしている間に、何時か自分も小説を書くことを覚え出した。此の青年も母親に似て、ジャアナリスト的な才能を多く有《も》っているようである。息子の書いたものに義父が筆を加え、それを母親が批評するという、妙な一家が出来上った。今迄に父子の合作は一つ出来ていたが、今度ヴァイリマで一緒に暮らすようになってから、「退潮《エッブ・タイド》」なる新しい共同作品の計画が建てられた。
 
 四月になると、愈々《いよいよ》屋敷が出来上った。芝生とヒビスカスの花とに囲まれた・暗緑色の木造二階建、赤屋根の家は、ひどく土人達の眼を驚かせた。スティヴロン氏、或いはストレーヴン氏(彼の名を正確に発音できる土人は少かった)或いはツシタラ(物語の語り手を意味する土語)が、富豪であり、大酋長《だいしゅうちょう》であることは、最早疑いなきものと彼等には思われた。彼の豪壮(?)な邸宅の噂は、やがてカヌーに乗って、遠くフィジー、トンガ諸島あたり迄|喧伝《けんでん》された。

 やがて、スコットランドからスティヴンスンの老母が来て一緒に暮らすことになった。それと共に、ロイドの姉イソベル・ストロング夫人が長男のオースティンを連れてヴァイリマに合流した。
 スティヴンスンの健康は珍しく上乗で、伐木や乗馬にもさして疲れないようになった。原稿執筆は、毎朝決って五時間位。建築費に三千|磅《ポンド》も使った彼は、いやでも書《かき》捲《ま》くらざるを得なかった
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