夜話」六部を受取る。挿絵を見て驚いた。挿絵画家は南洋を見たことがないのだ。
六月××日
消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死にそうだ。「退潮《エッブ・タイド》」百一頁迄漸く辿《たど》りつく。一人の人物の性格がはっきり掴《つか》めない。それに近頃は文章に迄苦労するんだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。色々な類似の文句を無闇に並べて見ても、中々気に入るのが見付からない。斯んな莫迦《ばか》げた苦労は、何ものをも産みはせぬ。くだらぬ蒸溜《じょうりゅう》だ。
今日は朝から西風、雨、飛沫《しぶき》、冷々した気温。ヴェランダに立っていたら、ふと、或る異常な(一見根拠のない)感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出したからだと悟った。平生のサモアとは似てもつかない・この冷々した・湿っぽい・鉛色の風景が、私を何時しか、そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川。今此処から聞えるヴァイトゥリンガの水音までが、ハイランドの急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を飛出して、こんな所迄流れて来たのか? 胸を締めつけられる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か? ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今迄何か良き仕事を此の地上に残したか? と。之は怪しいものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか? ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも――それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分の姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。…………
こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮《エッブ・タイド》」の苦しみとの結果だ。
六月××日
「退潮《エッブ・タイド》」は一時暗礁に乗上げたままにして置いて、「エンジニーアの家」の祖父の章を書上げた。
「退潮《エッブ・タイド》」は最悪の作品に非ざるか?
小説という文学の形式――少くとも私の形式――が厭になって来た。
医者に診て貰うと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止めて軽い戸外運動だけにすることだ、と。
十一
医者というものを、彼は信用しな
前へ
次へ
全89ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング