み足を蹴上げて跳ね廻る時、大法官も大作家も共に、威厳を失墜すること夥《おびただ》し。
一週間前、チーフ・ジャスティスは混血児の通訳をそそのかして、私に不利な証拠を掴《つか》ませようとあせっていたし、私は私で今朝も、此の男を猛烈に攻撃した第七回目の公開状をタイムズヘ書いていた。
我々は、今微笑を交しつつ、奔馬の跳躍に余念がない!
九月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸く仕上。と同時に、作者もぐったりして了った。医者に診て貰うと、決って、此の熱帯の気候の「温帯人を傷める」性質に就いての説明を聞かされる。どうも信じられない。この一年間、煩わしい政治騒ぎの中で持続的にやって来た労作のようなものは、まさか、ノルウェーでは出来まいに。兎に角、身体は疲労の極に達している。「デイヴィッド・バルフォア」に就いては、大体満足。
昨日の午後街へ使にやったアリック少年が、昨夜遅く繃帯《ほうたい》をし眼を輝かして帰って来た。マライタ部落の少年等と決闘、三・四人を傷つけて来たと。今朝、彼はうち[#「うち」に傍点]中の英雄になっていた。彼は一本糸の胡弓《こきゅう》を作り、自ら勝利の唄を奏で、且つ踊った。興奮している時の彼は中々美少年である。ニュウ・ヘブリディスから来た当座は、うち[#「うち」に傍点]の食事が旨《うま》いとて無闇に食過ぎ、腹が凄くふくらんで了って苦しんだことがあったが。
十月×日
朝来、胃痛|劇《はげ》し。阿片《あへん》丁幾《チンキ》十五滴服用。この二三日は仕事をせず。我が精神は所有者未定《アベイヤンス》の状態にあり。
曾《かつ》て私は華やかな青年だったらしい。というのは其の頃、友人の誰もが、私の作品よりも私の性格と談話との絢爛《けんらん》さを買っていたようだったから。しかし、人は何時迄もエァリエルやパックばかりではいられない。「ヴァージニバス・ピュエリスク」の思想も文体も、今では最も厭《いと》わしいものになって了った。実際イエールでの喀血《かっけつ》後、凡《すべ》てのものに底が見えて来たように感じた。私は最早何事にも希望を抱かぬ。死蛙の如くに。私は、凡ての事に、落着いた絶望を以て這入って行く。宛《あたか》も、海へ行く場合、私が何時も溺《おぼ》れることを確信して行くのと同様に。ということは、何も、自暴自棄になっているのではない。それ所か、私は、死ぬ迄快活さを失わ
前へ
次へ
全89ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング