、「弁解は神様だけが御存じだ」と嘯《うそぶ》いたものだが、今は、裸になり、両手を突き、満身の汗をかいて、「分りませぬ」と申します。
 一体、俺はファニイを愛していたのか? 恐ろしい問だ。恐ろしい事だ。之も分らぬ。兎に角分っているのは、私が彼女と結婚して今に到っているということだけだ。(抑々《そもそも》愛とは何だ? 之からして分っているのか? 定義を求めているのではない。自己の経験の中から直ぐに引出せる答を有っているか、というのだ。おお、満天下の読者諸君! 諸君は知っておられるか? 幾多の小説の中で幾多の愛人達を描いた小説家ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン氏は、何と、齢《よわい》四十にして未だ愛の何ものなるかを解せぬということを。だが、驚くことはない。試みに古来のあらゆる大作家を拉《らっ》し来って、面と向って此の単純極まる質問を呈して見給え。愛とは何ぞや? と。して、彼等の心情経験の整理箱の中から其の直接の答を求めて見給え。ミルトンもスコットもスウィフトもモリエールもラブレエも、更にはシェイクスピア其の人さえもが、意外にも、驚くべき非常識、乃至《ないし》、未熟を曝露《ばくろ》するに違いないから。)
 所で、問題は要するに、作品と、作者の生活との開き[#「開き」に傍点]だ。作品に比べて、悲しいことに、生活が(人間が)余りに低い。俺は、俺の作品のだしがら[#「だしがら」に傍点]? スウプのだしがら[#「だしがら」に傍点]の様な。今にして思う。俺は、物語を書くことしか今迄考えたことがなかった。その一つの目的に向って統一された生活を美しいとさえ自ら感じていた。勿論、作品を書くことが、同時に、人間修業にならなかった、とはいうまい。確かに、なった。しかし、それ以上に、人間的完成に資する所の多い途《みち》は無かったか? (他の世界――行為の世界は病弱な自分に対して閉されていたから、などというのは、卑怯《ひきょう》な遁辞《とんじ》であろう。一生病床にいても、猶《なお》、修業の途はある。勿論、そうした病人の達成する所のものは、余りに偏《かたよ》ったものになりがちだが)自分は余りにも物語道(その技巧的方面)にのみ没入し過ぎてはいなかったか? 漠然とした自己完成のみを目指して生活に一つの実際的焦点を有たぬ者(ソーローを見よ)の危険は、充分考慮に入れた上で、この事を言っているのだ。曾《かつ
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