確かに、それは真実である。私も此の意見を絶対に支持する。ただ、此の言を為した所の人が、果して、クラリッサ・ハアロウを一度でも通読したことがあるか、どうか。又、ロビンソン・クルーソーを五回以上読んだことがないか、どうか、それが些《いささ》か疑わしいだけのことだ。
 之は非常にむずかしい問題だ。ただ云えることは、真実性と興味性とを共に完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。之をモツァルトの音楽に聴け。
 ロビンソン・クルーソーといえば、当然、私の「宝島」が問題になる。あの作品の価値に就いては暫く之を措《お》くとするも、あの作品に私が全力を注いだという事を大抵の人が信じて呉れないのは、不思議だ。後に「誘拐《キッドナップト》」や「マァスタア・オヴ・バラントレエ」を書いた時と同じ真剣さで、私はあの書物を書いた。おかしいことに、あれを書いている間ずっと、私は、それが少年の為の読物であることをすっかり忘れていたらしいのだ。私は今でも、私の最初の長篇たる・あの少年読物が嫌いではない。世間は解って呉れないのだ、私が子供であることを。所で、私の中の子供を認める人達は、今度は、私が同時に成人《おとな》だということを理解して呉れないのだ。
 成人《おとな》、子供、ということで、もう一つ。英国の下手な小説と、仏蘭西《フランス》の巧《うま》い小説に就いて。(仏蘭西人はどうして、あんなに小説が巧いんだろう?)マダム・ボヴァリイは疑もなく傑作だ。オリヴァア・トゥイストは、何という子供じみた家庭小説であることか! しかも、私は思う。成人《おとな》の小説を書いたフロオベェルよりも、子供の物語を残したディッケンズの方が、成人《おとな》なのではないか、と。但し、此の考え方にも危険はある。斯《か》かる意味の成人《おとな》は、結局何も書かぬことになりはしないか? ウィリアム・シェイクスピア氏が成長してアール・オヴ・チャタムとなり、チャタム卿《きょう》が成長して名も無き一市井人となる。(?)
 
 同じ言葉で、めいめい勝手な違った事柄を指したり、同じ事柄を各々違った、しかつめらしい言葉で表現したりして、人々は飽きずに争論を繰返している。文明から離れていると、この事の莫迦《ばか》らしさが一層はっきりして来る。心理学も認識論も未だ押寄せて来ない此の離れ島のツシタラにとっては、リアリズムの、ロマンティシズムのと
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