せて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩き廻《まわ》り、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠には解《わか》らなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏《まと》まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
 医者でもあり・占星師《せんせいし》でもあり・祈祷者《きとうしゃ》でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。因果《いんが》な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨《みじ》めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋《く》うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘《しょうしんしょうめい》の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ俺《おれ》は俺を俺と思うのか? 他《ほか》の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候《ちょうこう》じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治《なお》すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」

       二

 文字の発明は疾《と》くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑《けいべつ》する習慣があった。生きておる智慧《ちえ》が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも画《か》けようが。)それは、煙をその形のままに手で執《と》らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候《しるし》として斥《しりぞ》けられた。悟浄が日ごろ憂鬱《ゆううつ》なのも、畢竟《ひっきょう》、渠《かれ》が文字を解するために違いないと、妖怪《ばけもの》どもの間では思われておった。
 文字は尚《とうと》ばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙《ごい》ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河《りゅうさが》の河底にそれぞれ考える店[#「考える店」に傍点]を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想《めいそう》しておった。ある高貴な魚族は、美しい縞《しま》のある鮮緑の藻《も》の蔭《かげ》で、竪琴《たてごと》をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃《たた》えておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄《ごじょう》は、こうした知的な妖怪《ばけもの》どもの間で、いい嬲《なぶ》りものになった。一人の聡明《そうめい》そうな怪物が、悟浄に向かい、真面目《まじめ》くさって言うた。「真理とはなんぞや?」そして渠《かれ》の返辞をも待たず、嘲笑《ちょうしょう》を口辺に浮かべて大胯《おおまた》に歩み去った。また、一人の妖怪――これは※[#「魚+台」、135−7]魚《ふぐ》の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪《たず》ねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これを哂《わら》おうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死|到《いた》れば、すでに我なし。また、何をか懼《おそ》れん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、渠《かれ》自身けっして死を怖《おそ》れていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。哂《わら》おうとしてやって来た※[#「魚+台」、135−12]魚の精は失望して帰って行った。

 妖怪《ばけもの》の世界にあっては、身体《からだ》と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいな
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