よ。そう懼《おそ》れることはない。浪《なみ》にさらわれる者は溺《おぼ》れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変《ういてんぺん》をのり超えて不壊不動《ふえふどう》の境地に到ることもできぬではない。古《いにしえ》の真人《しんじん》は、能《よ》く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生《ふしふしょう》の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有《も》つ楽しみもない。無味、無色。誠《まこと》に味気《あじけ》ないこと蝋《ろう》のごとく砂のごとしじゃ。」
 悟浄は控えめに口を挾《はさ》んだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心《ふどうしん》の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は目脂《めやに》の溜《たま》った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を外《ほか》にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻《まぼろし》じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見《びゅうけん》じゃ。世界が消えても、正体の判《わか》らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
 悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢《げり》ののちに、この老|隠者《いんじゃ》は、ついに斃《たお》れた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺《まっさつ》できることを喜びながら……。
 悟浄は懇《ねんご》ろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。

 噂《うわさ》によれば、坐忘《ざぼう》先生は常に坐禅《ざぜん》を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚《さ》まされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は睡《ねむ》っておられた。なにしろ流沙河《りゅうさが》で最も深い谷底で、上からの光もほとんど射《さ》して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐《けっかふざ》したまま睡っている僧形《そうぎょう》がぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐《すわ》って眼を瞑《つぶ》ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
 悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝《らいはい》をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度|瞬《まばた》きをした。しばらく無言の対坐《たいざ》を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「咄《とつ》! 秦時《しんじ》の※[#「車+度」、139−16]轢鑚《たくらくさん》!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰《くら》った。渠《かれ》はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が下《お》りて来なかった。厚い唇《くちびる》を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]《おまえ》じゃ。冬になって寒さを感ずるものが※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]じゃ。」さて、それで厚い唇《くちびる》を閉じ、しばらく悟浄《ごじょう》のほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は辛抱強《しんぼうづよ》く待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に坐《すわ》っている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄は謹《つつ》しんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時[#「ひと時」に傍点]ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔《ま》くことじゃろう。大椿《たいちん》の寿《じゅ》も、朝菌《ちょうきん》の夭《よう》も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置《しかけ》じゃわい」
 そう言終わると、先生はまた眼を閉じた
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