丁目の停留所まで来た。彼がそこで立止ったので、私もそれに倣《なら》った。彼は電車に乗るつもりかも知れない。私達は並んで立ったまま、眺めるともなく、前の薬局の飾窓を眺めていた。彼はそこに何か見付けたらしく、大胯《おおまた》に其の窓の前に歩いて行った。私も彼について行って覗《のぞ》いて見た。それは新発売の性器具の広告で、見本らしいものが黒い布の上に並べられていた。彼はその前に立って、微笑を浮かべて暫く覗いていた。その彼を、私は横に立って眺めていた。と、その時、彼のそのニヤニヤした薄笑いを横あいから覗き込んだ時、突然、私はすっかり思い出した。今まで私の頭の中で、渦巻のまわりの塵のようにぐるぐる廻ってばかりいた私の記憶が、その時、忽ち渦巻の中心に飛び込んだのだ。皮肉げに脣を曲げたあの薄笑い。眼鏡を掛けてはいるが、その奥からのぞいている細い眼。お人良しと猜疑《さいぎ》とのまざりあった其の眼付。――おお、それが彼以外の誰だろうか。虎に殺され損った勢子《せこ》を足で蹴返していまいましげに見下した彼以外の誰の眼付だろうか。その瞬間、一時に私は、虎狩や熱帯魚や発火演習などをごたごた[#「ごたごた」に傍点
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