ると、彼が私からバットを受取って、さて、燐寸《マッチ》を取出すために右手をポケットに入れた時、彼はそこに矢張り同じ煙草の箱を探りあてたのだという。その時に、彼はハッとして、自分の求めていたものが煙草でなくて燐寸であったことに気がついた。そこで彼は、自分が何故、この馬鹿馬鹿しい間違いをしたかを考えて見た。単なる思い違いと云ってしまえば、それまでだが、それならば、其の思い違いは何処《どこ》から来たか。それを色々考えた末、彼はこう結論したのだ。つまり、それは、彼の記憶が悉《ことごと》く言葉によったためであると。彼ははじめ自分に燐寸がないのを発見した時、誰かに逢ったら燐寸を貰おうと考え、その考えを言葉として、「自分は他人《ひと》から燐寸を貰わねばならぬ」という言葉として、記憶の中にとって置いた。燐寸がほんとう[#「ほんとう」に傍点]に欲しいという実際的な要求の気持として、全身的要求の感覚――へんな言葉だが、此の場合こう云えば、よく解るだろう、と、彼はその時、そう附加えた。――として記憶の中に保存して置かなかった。これがあの間違いのもと[#「もと」に傍点]なのだ。感覚とか感情ならば、うすれること
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