今の今までどんな厚い皮でもたちどころに引裂くことの出来たその鋭い爪や、飼猫のそれとまるで同じな白い口髭《くちひげ》などに、そっとさわって見たりした。
 一方、倒れている人間の方はどうかというと、これはただ恐怖のあまり気を失っただけで、少しの怪我《けが》もなかった。あとで聞くと、此《こ》の男はやはり勢子の一人で、虎を尋ねあぐんで私達の所へ帰って来たのだが、あの空地の所で一寸小用を足している時に、ひょいと横合から虎が出て来たのだという。
 私を驚かせたのはその時の趙大煥の態度だった。彼は、その気を失って倒れている男の所へ来ると、足で荒々しく其の身体を蹴返して見ながら私に言うのだ。
 ――チョッ! 怪我もしていない――
 それが決して冗談に言っているのではなく、いかにも此の男の無事なのを口惜《くちお》しがる、つまり自分が前から期待していたような惨劇の犠牲者にならなかったことを憤っているように響くのだ。そして側で見ている彼の父親も、息子がその勢子を足でなぶるのを止《と》めようともしない。ふと私は、彼等の中を流れている此の地の豪族の血を見たように思った。そして趙大煥が気絶した男をいまいましそうに
前へ 次へ
全54ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング