表現は奇峭であり、晦渋である。『凧刻んで夜の壁に描き得た我が霊妙なる壁画を瞬く間に擾して、越後獅子の譜の影は蠅になって舞踏する。蚯蚓も輪に刎ね蚰蜒《ゲジゲジ》は反って踊る。』(隣の糸)なぞという文章にあっては、全くはじめての人は面喰うであろう。この表現の奇矯という点に於て、氏はまた後の大正時代になって現われた新感覚派なるものと一脈相通ずる所がある。大体、新感覚派といっても、その狙う所は「外界の刺戟を感受する方法の新しさ」というよりは、むしろ、「その感覚の表現法の新しさ」にあるように思われる。単に感覚の清新という点から見れば、文学史を遥かに遡って、「削り氷にあまづら入れて、新しき鋺に入れたる。水晶の数珠・藤の花・梅の花に雪の降りかゝりたる。いみじう美しき稚児の覆盆子など喰ひたる。」を「あてなる物」と見た枕草子の作者なぞも、立派な新感覚派だと思う。雑誌「文芸時代」に拠った新感覚派は、むしろ奇矯なる表現のみを重視していた。事実的には、表現法に努力することによって、逆に、そのもと[#「もと」に丸傍点]となるべき感覚の尖鋭化への修練が積まれて行ったようである。
「雄蘂の弓が新月のように青空へ矢を放った。」……「春景色」(川端康成)
「栗毛の馬の平原は狂人をのせてうねりながら、黒い地平線をつくって、潮のように没落へと溢れて行った。」……「ナポレオンと田虫」(横光利一)
 鏡花氏も、単に、その感覚の新鮮と表現の斬新とから見るならば、決して、之等の新感覚派の人々に劣らないのである。
『時雨に真蒼なのは蒼鬣魚《かわはぎ》の鰭である。形は小さいが、三十枚ばかりずつ幾山にも並べた、あの暗灰色の菱形の魚を三角形に積んで、下積になったのは軒下の石に藍を流して、上の方は浜の砂をざらざらとそのままだから、海の底のピラミッドを影で覗く鮮しさがある。』(卵塔場の天女)
『汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を夢のように月下に吐いて、真蒼な野路を光って通る。』(歌行燈)なぞ、以下例を挙げれば限りもないが、決して新感覚派の人達に比して遜色ないと思われる。但し、横光氏等の当時の作品には、鏡花氏には見られない、作品全体の(もしくは、その中の一つの情景の)構成[#「構成」に二重丸傍点]それ自らの中の新しさというものがあった。
『父が突然死んで了った。私は海峡を渡るとバナナを四日間たべつづけて、まだ知らぬ街まで出かけて行った。母は、とある街角の三角形の奇怪な硝子張りの家の中で、ひとり、机のようにぼんやりと坐っていた。』「青い大尉」(横光利一)
 これは作者の現実を見る眼の相違からくるものであって、文学史的に考えて見て、表現派の洗礼を受けた新感覚派に之が見られ、表現派以前である鏡花氏に之が見られないのは当然のことである。
 併しながら、その新感覚派の作家達がわずか数年にして、その奇矯なる表現法を捨てて了った(あるいは、それを使いこなす力がなくなって了った。)に対して、鏡花氏は実に三十年一日の如く、その独自の表現法を固守して益々その精彩を加えてきているのである。これは、新感覚派の諸作家の表現法が、単なる一時の雷同ひょっとした思いつき、に止っていたのに反して(横光氏などの場合は、そうとばかりも言いきれないが)鏡花氏のそれ[#「それ」に傍点]が、何よりも、氏自身の中から生れた、身についた表現法であることの証拠であろう、と私は思う。実にかくの如く突兀・奇峭にして、又絢爛を極めた言葉の豪奢な織物でなくては、とても、氏の内なる美しい幻想を――奇怪な心象風景を――写し出すことは出来ないのである。氏の文章は、だから、他人の眼には如何に奇怪にうつろうとも、氏自らにとっては、他の何物をもっても之にかえることのできない、唯一無二の表現術なのである。かかる作者自身の感情や感覚の裏打ちがあればこそ、氏の文章は、かくも人をひきつけるのである。単なる、きまぐれ[#「きまぐれ」に傍点]や思いつき[#「思いつき」に傍点]だけであったなら、三十年の長い年月の間に必ずや、化の皮を現わしたことに違いないと、私は考えるのである。
[#地から2字上げ](昭和八年七月発行、「学苑」第一号)



底本:「中島敦全集 3」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年5月24日第1刷発行
   2003(平成15)年3月20日第5刷発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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