な固い表情に変り、眉一つ動かさず凝乎《じっ》と見下す。今や胸の真上に蔽いかぶさって来る真黒な重みに、最後の悲鳴を挙げた途端に、正気に返った。……
いつか夜に入ったと見え、暗い部屋の隅に白っぽい灯が一つともっている。今まで夢の中で見ていたのはやはりこの灯だったのかも知れない。傍を見上げると、これまた夢の中とそっくり[#「そっくり」に傍点]な豎牛の顔が、人間離れのした冷酷さを湛えて、静かに見下している。その貌《かお》はもはや人間ではなく、真黒な原始の混沌《こんとん》に根を生やした一個の物のように思われる。叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとする一人の男に対する恐怖ではない。むしろ、世界のきびしい悪意といったようなものへの、遜《へりくだ》った懼《おそ》れに近い。もはや先刻までの怒は運命的な畏怖《いふ》感に圧倒されてしまった。今はこの男に刃向《はむか》おうとする気力も失せたのである。
三日の後、魯の名大夫、叔孫豹は餓えて死んだ。
底本:「山月記・李陵 他九篇」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年7月18日第1刷発行
1998(平成10)年12月25日第7刷
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
初出:「政界往来」
1942(昭和17)年7月
入力:小林克彦
校正:今井忠夫
2001年1月20日公開
2004年2月4日修正
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