ェこの島の主となる日を考えると、妙にうそ[#「うそ」に傍点]寒い気持がして来た。
 薄明というものの無い南国のことで、陽が海に落ちると、すぐに真暗になる。私が淋《さび》しい東海岸から、それでも人家の集まっている西岸へと廻って行った頃は、もう既に夜であった。椰子樹の下の低い民家から、チラチラと灯が洩れる。その一軒に私は近付いて行った。裏の炊事場――パラオ語ではウムというが、此処南方離島では何と呼ぶのか知らない――に、焔が音も無く燃えていた。その上に掛かった鍋には芋か魚でもはいっているのだろう。私が中にはいって行くと、火の傍にいた老婆が驚いて顔を上げた。黥をした、たるんだ[#「たるんだ」に傍点]皮膚が、揺れ動く焔にチラチラと赤く映える。手真似で食を求めると、老婆はすぐに前の鍋の蓋を取って覗いた。だぶだぶ[#「だぶだぶ」に傍点]の汁《つゆ》の中に小魚が三、四匹はいっていたが、まだ煮えないらしい。老婆は立上って奥から木皿を持って来た。タロ芋の切ったのと、燻製らしい魚の切身が載っていた。別に空腹な訳ではない。彼らの食物の種類や味が知りたかっただけである。両方をちょっとつまんで味わって見てから、私は日本語で礼を言って、表へ出た。
 浜へ出ると、遥か向うに、私の乗って来た――そうして、ここ数時間の中にはまた乗って立去る――小汽船の燈火が、暗い海に其処《そこ》だけ明るく浮上っていた。ちょうど側を通りかかった島民の男を呼びとめ、カヌーを漕がせて、船に帰った。

 汽船《ふね》はこの島を夜半に発《た》つ。それまで汐を待つのである。
 私は甲板に出て欄干《てすり》に凭《よ》った。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。檣《ほばしら》や索綱《つな》の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代|希臘《ギリシャ》の或る神秘家の言った「天体の妙《たえ》なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢いその古代人はこう説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星どもは常に巨大な音響――それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音――を立てて廻転しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、竟《つい》にその妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻《さっき》夕方の浜辺で島民ど
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