謠oしたトリイトンが嚠喨《りゅうりょう》と貝殻を吹いている。何処か、この晴れ渡った空の下で、薔薇《ばら》色の泡からアフロディテが生れかかっている。何処か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人《びと》の王を誘惑しようとしている。……いけない! またしても亡霊だ。文学、それも欧羅巴文学とやらいうものの蒼ざめた幽霊だ。
 舌打をしながら私は立上る。ほろ苦いものがしばらくの間心の隅に残っている。
 湿った渚に踏入ると、無数のやどかり[#「やどかり」に傍点]ども、青と赤の玩具のような小蟹どもが一斉に逃げ出す。五寸ほど芽の出掛かった椰子の実の落ちているのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入ってボチャンと音を立てる。
 そういえば、昨夜、奇妙なことがあった。島民家屋の丸竹を並べた床《ゆか》の上に、薄いタコ[#「タコ」に傍点]の葉の呉蓙《ござ》を一枚敷いて寝ていた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞台ではなく)みやげもの[#「みやげもの」に傍点]屋(あられ[#「あられ」に傍点]や飴《あめ》や似顔絵やブロマイドなどを売る)の明るい華美な店先と、その前を行き交う着飾った人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や缶や手拭や、俳優の似顔の目の隈取《くまど》りや、それを照らす白い強い電燈の光や、それに見入る娘たちや雛妓《すうぎ》らの様子までもはっきり[#「はっきり」に傍点]、彼女らの髪油の匂までもありあり[#「ありあり」に傍点]と、浮かんで来た。私は、歌舞伎劇そのものも余り好きではない。みやげもの屋などに何の興味も無いはずである。何故、こんな意味も内容も無い東京生活の薄っぺらな一断面が、太平洋の濤に囲まれた小さな島の・椰子の葉で葺《ふ》いた土民小舎の中で、家の周囲《まわり》にズシンと落ちる椰子の実の音を聞いている時に、突然思出されたものか。私には皆目《かいもく》判らぬ。とにかく、私の中には色んな奇妙な奴らがゴチャゴチャと雑居しているらしい。浅間しい、唾棄《だき》すべき奴までが。

 海岸のタマナ並木の蔭のはずれまで来た時、向うから陽に灼《や》けた砂の上を素裸の小さい男の子が駈けて来た。私の前まで来ると、立止ってキチンと足を揃え、頭が膝《ひざ》の所まで来るほどの丁寧なお辞儀をしてから、食事の用意が出来たことを告げた。私の泊っている島民の家の児で、今年|
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