トすり》を越えて海の上へと躍った島民少年の後姿を見た。慌てて我々は欄干の所へ駈け寄った。既に脱走者は船から七、八間離れた渦の中を船尾を廻って鮮やかに島の方へと泳いでいた。
「停めろ! 船を停めろ!」と警官が喚《わめ》いた。「ナポレオンが逃げたぞ。」
 たちまち船の上はごった返し[#「ごった返し」に傍点]の騒ぎとなった。船尾にいた二人の島民水夫がその場から海に跳び込んで脱走者の後を追うた。二人とも二十歳を越えたばかりと思われる逞しい青年だ。脱走者と追跡者との距離は見る見る縮まって行くように見えた。浜辺で船を見送っていた島の連中もようやく気が付いたらしく、ナポレオンの泳ぎ着こうとする方角に向って、白い砂の上をバラバラと駈けて行く。
 思いがけない活劇に、私は欄干に凭ってかたず[#「かたず」に傍点]を呑んだ。これはまた、目も醒めるばかり鮮やかな色彩の世界を背景にした南海の捕りものである。私はよほど嬉しそうな顔をして眺めていたに違いない。「面白いですなあ!」と声を掛けられて気が付くと、いつの間にか隣に船長が(どういう訳か、この船長はいつ見ても多少の酒気を帯びていないことはない)来ていたのである。彼もまたのんびりとパイプの煙をふかしながら、映画でも見るように楽しげに海の活劇を見下していた。巧くナポレオンが浜に泳ぎ着いて、さて島内の森の中へでも逃げおおせてくれればいいと、どうやらそんな事を考えていたらしい自分に気が付いて、私は苦笑した。
 だが、結果は案外あっけ[#「あっけ」に傍点]なかった。結局、汀《なぎさ》から二十間ばかりの・丈の立つ所まで来た時、ナポレオンは追い付かれた。並よりも身体の小さい少年一人と、堂々たる体格の青年二人とでは、結果は問うまでもない。少年は二人に両腕を取られて引立てられ、浜に上ったまでは見えたが、島の連中がたちまち取巻いてしまったので、あとは良く見えなくなった。
 警官は酷《ひど》く機嫌を悪くしていた。
 三十分後、殊勲の二水夫に押えられたナポレオンが再び島のカヌーで船に連れ戻された時、真先に彼は手酷い平手打を三つ四つ続けざまに喰わせられた。さて、それから今度は(先刻は縄をつけなかったのだ)両手両足を船の麻縄で縛り上げられた上、隅っこの・島民船員の食料が詰め込んであるらしい椰子バスケットと飲用の皮剥若椰子との間にころがされた。
「畜生。余計な世話を焼か
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