ハ。最初の者が苦しみを嘗《な》めたように、最後の者もまたどんなにか苦しみを嘗めねばならぬであろう。そう呟《つぶや》きながら、黥《いれずみ》をした老爺や老婆たちが、哀しげに虔《つつし》み深く、赤ん坊を礼拝したという。但し、それは老人だけの話で、若い者は、何年にも見たことのない人間の赤ん坊というものが珍しさに、ワイワイ騒ぎながら見物に来たと聞いている。ちょうど女の児が生れる二年前に、戸口調査があり、その時の記録には人口三百と記されているのに、今ではもう百七、八十しか無い。こんな速やかな減少率があろうか。死ぬ者ばかりで生れる者が皆無だと、別に疫病に見舞われた訳でなくとも、こんなに速く減るものだろうか。当時女の赤ん坊を拝んだ老人たちはもはや一人残らず死んでしまっているに違いない。それでも、老人たちの残した訓《おし》えは固く守られていると見えて、今でも、この島の最後の者たるべき女の児は、喇嘛《ラマ》の活仏《いきぼとけ》のように大事にされている。成人《おとな》ばかりの間にたった一人の子供では、可愛がられるのが当り前のようだが、この場合は、それに多分の原始宗教的な畏怖《いふ》と哀感とが加わっているのである。
 何故、この島には赤ん坊が生れないのか。性病の蔓延《まんえん》や避妊の事実は無いか、と誰もが訊ねる。なるほど、性病も肺病も無いことはないが、それは何も、この島に限ったことではない。というよりむしろ、他の島々に比べて少い位なのだ。避妊に至っては己の島の絶滅を予感してその前に戦《おのの》いているものが、そんな事をする訳が無いのである。また、女性の身体の一部に不自然な施術をする奇習が原因だろうという者もあるが、この習慣の本家たるトラック地方の諸離島では人口減少の現象が見られないのだから、この推測は当らない。他の島々に比べてタロ芋の産出は豊かだし、椰子も麺麭樹も良く実り、食料は余る位だ。別に天災地変に見舞われた訳でもない。では、何故《なぜ》だ。何故、赤ん坊が生れないか。私には判らない。恐らく、神がこの島の人間を滅ぼそうと決意したからでもあろう。非科学的と嗤《わら》われても、そうでも考えるより外、仕方が無いようである。よく手入された芋田と、美しい椰子林とを真昼の眩《まぶ》しい光の下に見ながら、この島の運命を考えた時、あらゆる重大なことは凡《すべ》て「にもかかわらず《トロッツデム》」起る
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