初等課だけだから三年までである。門をはひるや否や、色の淺黒い(といつても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるやうに思はれる)子供等が爭つて前に出て來ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀に頭を下げる。
教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奧さんである。
校長は授業を見られたくない樣子だ。殊に己が妻の授業を。私も亦、それを強要して、心理的な機微を觀察しようとする程、意地が惡くはない。たゞ、校長から、此處の島民兒童の特徴や、永年の公學校教育の經驗談でも聽くにとゞめようと思つた。所が、私は、何を聞かねばならなかつたか? 徹頭徹尾、私が先程會つて來た・あの警部補の惡口ばかりを聞かされたのである。
此處ばかりには限らない。離島《りたう》で、巡査派出所と公學校と兩方のある島では、必ず兩者の軋轢がある。さういふ島では、巡査と公學校長(校長ばかりで下に訓導のゐない學校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、且つ官吏であるので、自然勢力爭ひが起るのである。どちらか一方だけだと、小獨裁者の專制になつて却つて結果は良いのだが。
私は今迄にも何囘となくそれを見ては來たが、ここの校長のやうに初對面の者に向つて、いきなり斯う猛烈にやり出すのは、初めてであつた。何の惡口といふことはない。何から何まで其の警部補のする事はみんな惡いのである。魚釣(此の灣内ではもろ鰺[#「もろ鰺」に傍点]が良く釣れるさうだが)の下手なの迄が讒謗の種子にならうとは、私も考へなかつた。魚釣の話が一番|後《あと》に出たものだから、少し慌てて聞いてゐると、警部補は魚釣が下手故此の島の行政事務を任せては置けないといふ風な論旨に取られかねないのである。聞いてゐる中に、先程は何とも感じなかつた・あの横幅の廣い警部補に何だか好感が持てさうな氣がして來た。
島を案内しようといふのを斷《ことわ》つて公學校を退却すると、私は獨りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」といふ名で知られてゐる古代城郭の址を見に行つた。今迄曇つてゐた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帶的な相貌を帶びて來た。
海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の壘壁にぶつかる。鬱蒼たる熱帶樹に蔽はれ苔に埋もれてはゐるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
入口をはひつてからが仲々廣い。苔で滑り
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