にプールが出來てゐるのだが、其のプールの縁に我々は腰を下した。
相當な年輩のくせにひどく歌の好きなH氏が大聲を上げて、色んな歌を――主に氏の得意な樣々のオペラの中の一節だつたが――唱つた。マリヤンは口笛ばかり吹いてゐた。厚い大きな脣を丸くとんがらせて吹くのである。彼女のは、そんなむづかしいオペラなんぞではなく、大抵フォスターの甘い曲ばかりである。聞きながら、ふと、私は、其等が元々北米の黒人共の哀しい歌だつたことを憶ひ出した。
何のきつかけ[#「きつかけ」に傍点]からだつたか、突然、H氏がマリヤンに言つた。
「マリヤン! マリヤン!(氏がいやに大きな聲を出したのは、家を出る時一寸引掛けて來た合成酒のせゐに違ひない)マリヤンが今度お婿さんを貰ふんだつたら、内地の人でなきや駄目だなあ。え? マリヤン!」
「フン」と厚い脣の端を一寸ゆがめたきり、マリヤンは返辭をしないで、プールの面を眺めてゐた。月は丁度中天に近く、從つて海は退潮なので、海と通じてゐる此のプールは殆ど底の石が現れさうな程水がなくなつてゐる。暫くして、私が先刻のH氏の話のつづきを忘れて了つた頃、マリヤンが口を切つた。
「でもねえ、内地の男の人はねえ、やつぱりねえ。」
なんだ。此奴、やつぱり先刻からずつと、自分の將來の再婚のことを考へてゐたのかと急に私は可笑《をか》しくなつて、大きな聲で笑ひ出した。さうして、尚も笑ひながら「やつぱり内地の男は、どうなんだい? え?」と聞いた。笑はれたのに腹を立てたのか、マリヤンは外《そ》つぽを向いて、何も返辭をしなかつた。
此の春、偶然にもH氏と私とが揃つて一時[#「一時」に傍点]内地へ出掛けることになつた時、マリヤンは※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をつぶして最後のパラオ料理の御馳走をして呉れた。
正月以來絶えて口にしなかつた肉の味に舌鼓を打ちながら、H氏と私とが「いづれ又秋頃迄には歸つて來るよ」(本當に、二人ともその豫定だつたのだ)と言ふと、マリヤンが笑ひながら言ふのである。
「をぢさん[#「をぢさん」に傍点]はそりや半分以上島民なんだから、又戻つて來るでせうけれど、トンちやん(困つたことに彼女は私のことを斯う呼ぶのだ。H氏の呼び方を眞似たのである。初めは少し腹を立てたが、しまひには閉口して苦笑する外は無かつた)はねえ。」
「あてにならないといふのかい?
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