に書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の讀書家かも知れない。

 マリヤンには五歳《いつつ》になる女の兒がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのださうである。それも、彼が度外《どはづ》れた嫉妬家《やきもちや》であるとの理由で。斯ういふとマリヤンが如何にも氣の荒い女のやうだが、――事實また、どう考へても氣の弱い方ではないが――之には、彼女の家柄から來る・島民としての地位の高さも、考へねばならぬのだ。彼女の養父たる混血兒のことは前に一寸述べたが、パラオは母系制だから、之はマリヤンの家格に何の關係も無い。だが、マリヤンの實母といふのが、コロールの第一長老家イデイヅ家の出なのだ。つまり、マリヤンはコロール島第一の名家に屬するのである。彼女が今でもコロール島民女子青年團長をしてゐるのは、彼女の才氣の外に、此の家柄にも依るのだ。マリヤンの夫だつた男は、パラオ本島オギワル村の者だが、(パラオでは女系制度ではあるが、結婚してゐる間は、矢張、妻が夫の家に赴いて住む。夫が死ねば子供等をみんな引連れて實家に歸つて了ふけれども)斯うした家格の關係もあり、又、マリヤンが田舍住ひを厭ふので、稍※[#二の字点、1−2−22]變則的ではあるが、夫の方がマリヤンの家に來て住んでゐた。それをマリヤンが追出したのである。體格から云つても男の方が敵はなかつたのかも知れぬ。しかし、其の後、追出された男が屡※[#二の字点、1−2−22]マリヤンの家に來て、慰藉料《ツガキーレン》などを持出しては復縁を嘆願するので、一度だけ其の願を容れて、又同棲したのださうだが、嫉妬男《やきもちをとこ》の本性は依然直らず(といふよりも、實際は、マリヤンと男との頭腦の程度の相違が何よりの原因らしく)再び別れたのだといふ。さうして、それ以來、獨りでゐる譯である。家柄の關係で、(パラオでは特に之がやかましい)滅多な者を迎へることも出來ず、又、マリヤンが開化し過ぎてゐる爲に大抵の島民の男では相手にならず、結局、もうマリヤンは結婚できないのぢやないかな、と、H氏は言つてゐた。さういへば、マリヤンの友達は、どうも日本人ばかりのやうだ。夕方など、何時も内地人の商人の細君連の縁臺などに割込んで話してゐる。それも、どうやら、大抵の場合マリヤンが其の雜談の牛耳を執つてゐるらしいのである。

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